■夢からの散歩
●7月6日(月) 曇り、ときどき晴れ
けさ、自分の唇が動くような感じと
なにか声のようなもので目が覚めた。
自分の寝言であった。
妻の寝言はこれまで何回か聞いているし、
それで目が覚めたことはある。
でも、自分の寝言で目が覚めた経験は
すぐには思い出せない。あったかもしれないが、
今日のは特別だった。
唇が動き、声を出そうとている自分がわった。
●「大人のひとを呼び捨てにしちゃあいかん!」と
近所の子供に言っていた。
悲鳴をあげるとか、助けを求めるとかなら、寝言になる
というのは理解できる。
また、私が激しく怒るとか、ののしるとか、でもそうなるかもしれない。
しかし、諭すように言ったことばが、唇を動かさせていた。
不思議な感触が残った。
●『目まいのする散歩』には、実際に目まいを伴いながらする散歩もあれば、
生まれ、生きていることが「散歩」であったり、あれこれ思い出したり、
考えたりするのも「散歩」であったり、また何何についてというべきところを
「何々散歩」と言ったりしている。
だから、どんなことでも「散歩」になり、「散歩」は時空を超えることができる。
これは、「夢」が時空を超えているのによく似ている。
●「夢」は過去の経験や見聞が材料になったり、未来への空想や願望を素材としたり、
また、現実の切迫や緊要が基材になったりする。
そして、それらの断片は因果関係や事実や規範や、また物語の起承転結からも
自由で、何の脈絡も関係性もなく立ち現われて来る。
だから「夢」というのは、最大級の「散歩」のようである。
井上陽水の『夢の中へ』ではないが、もし「夢の中への散歩」でもしようものなら、
私たちは、どこにいってしまうのだろうと、急に不安になってくる。
●では、「夢からの散歩」というのはどうだろうか。
「夢」が露出してきて「散歩」をはじめる。
そんなことを思いついたのは、きょうの「寝言」であった。
「夢」が現実の中で散歩している・・・!
「トラウマ」という言葉がどんな意味かよく知らないし、
「イメージトレーニング」というのも、その実態を知らない。
しかし、「夢の中への散歩」も「夢からの散歩」も
ともに不気味なところがある。
●私は「日記」にいろいろ自分のことを書いたりしたが、記憶がはっきりしない
ことが多い。
「過去」というものは今はもう消えてないものであって
現在に痕跡としてあるにはあるのだろうが、それとてはっきりしない。
それで、「過去」とか「記憶」とか「事実」とかについて少し書きはじめたが
自分でもよくわからないことだからやめた。
まあ、簡単言えば、「過去」と事実論争をしない「記憶」のことを書こうと
思ったりした、ということ。
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