■観念した男の散歩
●7月4日(土) 曇り
どんぶり一杯のとろろ月見そばを
3回にわけて食べる。
スイカを食べる。
焼肉と野菜炒めを少し食べる。
食べるのは私の仕事である。
作ってくれるのは妻である。
きょうは一日、どんよりした天気だった。
●男は散歩に出る。
医者に酒をとめられているが、酒を飲むと
ついふらふらと外に出たくなる。
外に出る用事はなんにもないし、
リハビリ目的か、というと
それもそんなに目的ではない。
どちらかと言えば
「無理がしたくなる」
というところか。
多少の努力感を伴うが
「目まい」は起こらない。
男は目まいを警戒しながら
散歩に出る。
●『目まいのする散歩』は、そんな男の話である。
散歩は、ときに目まいを伴う。
疲れて坐る。やがて立ち上がろうとする。
目まいがくる。
「やっぱり思ったとおりだ。
そんなにうまくいくはずがない」
と思う。
また、坐り
死んでいった知人の死に方を思い出し
自分には、どんな死に方がふさわしいか
考えてみたりする。
すると「恍惚死」という言葉が浮かぶ。
ボケて死ぬこと、これならば楽だろうと思う。
しかし、なんぼなんでも、こんな自分に安楽な死が
遂げられるとは思えない。
親しくしている人が、男に
「武田さんはきっと死ぬときには、あわてず
騒がず死ぬでしょうな」
と真剣に言った。
男は、あわてて
「いや、とんでもない。
僕は必ずじたばたして死ぬにきまっているよ」
と答える。
男は終戦前、三十歳をちょっと越したとき
「司馬遷は生き恥さらした男である」
と書いた。
●散歩には目まいが伴う。
しかし、坐ってやり過ごしていると
「すべてのことは、たいがい無事にすむものだ」
という、いつも通りの結論に達する。
そして、散歩というものが
自分にとって容易ならざる意味をもってきたことに
気づく。
散歩という意味を広く解すれば、
人間の運命も生まれたときから、
あらかじめ定められた散歩のようであるし、
地球のどこかに生まれ住むからには、
あらかた行動範囲は限定されている。
そんなことをぼんやり考えてみて
男は、夢の中に散歩でもするかのように
場所はあっちこっち、過去の時間もいりみだれ
自在に、散歩をはじめる。
●これは、散歩談義や散歩随筆ではない。
また、老境を語る心境小説、エッセイの類でもない。
まして、回顧録や過去への述懐でもない。
しょうがなく言ってみれば、観念した男の
いまを、くらくらしながら歩いている
散歩の記録と言うことになるのだろう。
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