■「まともな男」補遺
●きょうも仕事が終わって、喫茶店に寄る。
今年最初のアイス・コーヒーを注文する。
読みきってもいないのに、
「里中哲彦「まともな男になりたい」/ちくま新書592 」を
推薦して、義務感に駆られて残りを読む。
読み終えて、書いたことを大きく修正しないでいいので
ホッとする。
勘は当たっていた。
また、なぜ推すかについてはもう書いたように
論じている対象が、論じるに値する対象であり、
かつ、論者の意見に対して読み手が、そのひとつひとつに
自分の意見を対置できる、
その点にこそ、この本のもつ意義がある。
だから、異見・反論、筆者に賛同しかねるところがあっても
それは別段かまわない。
(「序章」や「第1章」の論の進め方に、私は反対である)
●でも、読み終えて、ひとつ気になることがあった。
それは「福田恆存」の扱いだ。
第4章「俗物性を手なずける」でも、また
第6章「平衡感覚を生きる」でも、著者・里中哲彦は
福田恆存を引き、福田ほどこれをよく知っている者はいない
という、その「持ち上げ方」が少し気になる。
これと同じような感じを抱くのは、他の著者の本で
「司馬遼太郎」や「藤沢周平」「池波正太郎」などに捧げられる
賛辞のときにも感じた。
これもヘンな言い方だが、「大政翼賛会」的賛辞のような
感じを、私のまったく個人的な感じ方からは受ける。
何かに寄り掛ったような感じがするのだ。
そのことが気になった。
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