■やればできる
●どこかに書いたと思うので、探すが、見つからない。
同じ話を繰り返したくないので、できればリンクを貼り付けておき、
そこを参照してもらえばいいと思って、その書いたところを探す。
山田太一さんの本、「生きるかなしみ」に載っていたことば、
「かなわぬことを願ってはならぬ」のことだ。
●日記には、目安になるようなタイトルをつけているが、なかなか
見つからない。根気よく探して、やっと見つけた。
「殺し文句」などという、ちょっと粋がったタイトルをつけたのが、
よくなかった。
「本」の「腰巻」の話を枕にして、「生きるかなしみ」の腰巻に
書かれた「出来ないことを願ってはならぬ!」について書いている。
・
「出来ないことを願ってはならぬ!」
●私は自分が言いやすいように、「かわなぬことは願ってはならぬ」
と、いつのまにか変えて覚えていた。
また、このアンソロジーには、山田さん本人の「断念するという
こと」という序言もある。
●とにかく、私は「やってもできない」ことを、この山田さんの
「ことば」でもって言いたかったのだ。
世の中には、願っても、努力しても、がんばっても、どうしても
手に入らぬものがある、ということを言いたかった。
そして、そんなとき、私たちはそのことに、どう臨むか。
「かなわぬことを願ってはならぬ」、断念することの大切さ、
のことを思うのである。
私は、自分の子供に、すこやかに育ってほしい、という願いを
もったが、具体的にどんな人間になってほしいという希望を
もたなかった。自分がどんな人間になればいいのか、そのことに
迷っているのに、それを子供に教えたり、願ったりすることなど
できるはずもなかった。
いまでも、子や孫を見るとき、思うのは
「かなわぬことを願ってはならぬ」ということである。
●しかし、きょう書くことは、その反対である。
「やればできる」ということについてである。
●いま、事務の引継ぎをしている。順調に進んでいる。
あれほど、「できない」として、やることを拒否していた同僚が
「やればできる」のである。
経理、やったことがない。パソコン、やったことがない。
それで通っていた。いや、通していた。
そうやっても、職場が動いた。なんとか、なった。
だが、それが通らなくなると、やるしかない。そして、
やればできるのだ。やらなかったのは、打算だ。
●「やればできる」ようになったのは、練習の成果ではない。
「やらなければならない」という「責任」の受け止め方にある。
「やらなければしょうがない」と消極的に受け止めるか、
それとも積極的に受け止めるか、その相違はあっても、自分の
こととして事態を受け止め、それにどう対処するか、自分は
何を受け持つか、その「責任感」が「できる」ようにさせる。
●ただ、注意が必要なのは、その「責任」の範囲である。
「責任感」の強い人は、往々にして、その人の「任」でもないことに
倫理的な責任を負ってしまうことである。
「職場」の場合は、とくにそうである。自分がつぶれてしまうような
「責任」を負うべきでない。
倫理的に「責任感」の強い人は、そのことを肝に銘じるべしである。
役職の権限・責任をはっきりさせなければならない。
上司の責任や権限を、部下が引き受けるべきではない。
上司の「仕事」を奪ってはならない。
とくに、「無責任」な上司のもとにいる部下はそうである。
■案内
・
日記/「Home」案内
ログインしてコメントを確認・投稿する