バスは稲沢市荻須記念美術館を目指します。
メナード美術館は名古屋市の東側、荻須記念館は西側。少し時間がかかります。
私が荻須高徳を知ったのは、たしか中之島美術館の開館記念収蔵品大放出。中之島美術館は佐伯祐三の絵を多数収蔵していて、パリの絵がずらっと並んでいました。そこに続けて佐伯祐三ではない画家が描いた「エドガール・キネ通り」という絵がありました。エドガール・キネ通りは前にパリに行った時に通ったことがある通りなので「おお!」と思いました。それが荻須高徳でした。
この人の描くパリの絵がもっと見たいな…。
と、思いましたが、ネットで調べてもあまり出てきません。画集はずっと昔のごついものが出ていて今は品切れですし、そもそも高い。
そうしたら、去年「青池保子展」を見に行った時のこと。なぜか小磯良平の「神戸市立小磯記念美術館」で行われたため、売店で過去の展覧会の図録などが並んでいました。その中に「パリに生きる パリを描く」というタイトルの図録がありました。パリを描いた日本人画家の絵を集めたコレクションをしている人がいて、その人の収蔵品を中心にした展覧会があったらしい。たくさんの画家がパリを描いていました。小磯良平もありますし、佐伯祐三も藤田嗣治もあります。そしてその中に荻須高徳の絵もありました。それもかなりたくさん。これを見て即買い。やっぱり荻須高徳のパリはいい。
そうしたら、今回バスツアーで稲沢市荻須記念美術館を訪ねることができるという。「これは行かなくては!」と思って申し込みました。
さて、美術館に着きますと、学芸員の人が解説をしてくれるという。
これが、通り一遍の解説ではなく、とても熱がこもっていて聴きごたえのあるものでした。
まず荻須高徳は1901年に稲沢市の資産家の家に生まれます。
次男だったのですが、長男は後を継ぎますが、その必要がないため自由に好きなことをさせてもらいました。特に子供のころから絵が好きだったそうです。
愛知県立第三中学校(現在の愛知県立津島高等学校)に進学すると、東京美術学校を出た先生がやってきました。この先生が油絵を描いている所を見て興味を惹かれます。当時の稲沢市では油絵と言うものは誰も見たことがありませんでした。荻須は先生に頼んで油絵を教えてもらい、一緒に自転車に画材を積んで写生に出かけるようになりました。そうしてもっと油絵を勉強したいと思うようになります。
お父さんは地元の資産家で書画骨董の趣味もありました。しかし西洋の油絵のことなど全く知らないので、いくら次男で自由にさせると言っても将来手に職を付けてきちんとした職業にはついて欲しい。なので最初は油絵の勉強をするのを認めてくれませんでした。しかしこのお父さんの弟つまりおじさんがいて、東京でフランス料理店の支配人をしていたのです。このおじさんのところに居候するということで東京に出るのを許してもらいました。
そうして東京美術学校つまり現在の東京芸大の西洋画科に入ります。この学年は画家として成功した人が多く、豊作の学年だったと言います。そのうちの一人が小磯良平でした。同級生だったんですね。
美術館には卒業制作の「F氏の像」が展示されています。パレットを持つ男性で、画家仲間かもしれません。
荻須は本物の油絵、西洋の絵を見たい、西洋の風土に触れたいと思うようになっていきました。そしておじさんの援助の下でパリ留学に旅立ちます。この時一時帰国していた佐伯祐三と会って、パリでの生活に必要なもののアドバイスなどもらったそうな。佐伯祐三もパリに来て、二人はパリでも交流があったそうです。
さて、フランスに来て間もないころに描いたパリの街の絵が展示されています。
「みなさん、この絵を見てどう感じますか?」
そう、なんとなく暗い、うっとおしい色彩です。
当時のパリは建物の壁に石灰岩が使われていましたが、すす汚れなどでくすんでいたそうです。そこに美を見出したのは日本人の「わび・さび」精神でしょうか。
しかしその絵は意外にもパリっ子に受け入れられました。自分たちの本物のパリの姿が描かれている、と。
当時パリに留学してきた画家はいろいろいますが、だいたい大使館などのツテで日本人に買ってもらうことが多かったそうですが、荻須の絵はパリの人が買って行ったのです。
学芸員さんの言うには、このころパリを描いた有名な画家にユトリロがいます。しっくいの白い壁の建物が特徴的です。しかしユトリロのパリは「お化粧をしたパリ」です。荻須高徳のパリは素顔のパリを描き出したということです。
さて、1930年代になりますと、世界的な不況が起こります。日本円も暴落し、日本にいた画家たちは皆帰国していきました。しかし荻須は現地で絵を売って生活することができたので困ることがなく帰国することもなかったとか。
そうしてパリに住み続け、パリを描き続けていた荻須も、さすがに第二次大戦が始まるとギリギリまでねばりはしたものの結局は日本に帰らざるを得ませんでした。
日本に帰っても創作意欲がわきません。そこで藤田嗣治に勧められて中国へ渡りました。そうして砂漠の中にそびえる「熱河喇嘛廟」を描きます。
(熱河は清朝皇帝の避暑地だった所で、清朝の皇帝は満州族だったこともあってチベット仏教を信仰していました。なので日本でもない、中国でもないエキゾチックなたたずまいに心惹かれたのかなと思います)。
この絵のほか、ベネチアなどフランス以外の国を描いた絵が展示されている部屋もありました。
最初に描いたベネチアは、運河が描かれていません。最初にパリを描いたときのように、目の前の建物をそのまま、しかも開いている窓や洗濯ものなどリアルな生活感を感じさせるものです。その後、運河や橋などいかにもベネチアらしい絵も描きました。
さて、第二次大戦が終わりますと、荻須はすぐにパリへの渡航許可を申請します。1948年にようやく再びパリの地を踏むことができました。
それから描かれた大作、代表作が並びます。
「パリの屋根、人と街灯」は、モンマルトルの坂道に立つ傾きのある建物と、丘から見るパリの風景が描かれています。ここに書かれた建物は現存しているそうです。しかも学芸員さんが撮ってきたという現地写真も添えられています。
また「金のかたつむり」は、エスカルゴ料理店の入り口の上によく目立つ金のかたつむりが特徴的です。この建物は現存しないそうです。レ・アール地区だと聞いて「そうか」と思いました。レ・アール地区は古い建物をごっそり撤去して、新しい市場が作られたところです。
また別の部屋では、学生時代の写生帖が展示してありました。そのほか小さいスケッチがいろいろ。簡単な線描でもパリの息吹が感じられます。
さて、この美術館の見どころは荻須のアトリエ復元です。
荻須は最初日本人の多いモンパルナスに住んでいましたが、その後モンマルトルに移ります。第二次大戦で帰国した時、パリの友人は「荻須はきっと戻って来る」と信じて、家賃を払って部屋をキープしていたそうです。なので、戦後再びパリに来た時、部屋探しに苦労することがなかったということです。そうして死ぬまでこのアトリエで絵を描いていました。
美術館では、学芸員と共に建築家も同行して、このアパルトマンのサイズを計り、全く同じ大きさで復元しました。イーゼルにキャンバス、絵筆の入った瓶、いすとテーブルなどすべて詳しく考証して復元しました。
このように、こってりたっぷり解説してもらいました。「これ以降はご自由にご覧下さい」と言われても、あまり時間がない!
アトリエから展示室に戻り、少しの間も惜しんでもう一度絵を見て回りました。
私はユトリロよりも、佐伯祐三よりも、荻須高徳のパリが好きだと思いました。それは、学芸員さんの言うように、「素顔のパリ」が描かれているからかもしれません。ユトリロや佐伯祐三は「ユトリロの絵」「佐伯祐三の絵」という感じがします。しかし荻須高徳の絵を見ていると、パリの街そのものに吸い込まれていくような気分になります。
図録を探しましたが、あまり分厚くありません。とにかく買う。(写真:表紙は「金のかたつむり」)。
中を見ますと、1ページに4点詰め込んだりして、小さくなっているものが多いです。展示にはありませんでしたが、リトグラフも多数ありました。
集合時間が近づいてきたので、もうちょっと時間があったらな…と思いながら、後ろ髪を引かれながら美術館を後にしました。
あとは帰るだけ。
途中SAに2か所寄りました。何しろ「小さな美術館」ですから、お土産になるようなものはあまりありません。なのでSAでお土産などの買い物をするようになっているのでした。うなぎパイもあるし、赤福もちもある。私はお土産は別にいらないけど…と思いながら、体をほぐすために一応降ります。そして最後の大津SAで近江牛のレトルトのビーフハヤシを買ってしまったのでした。
本当に行って良かったですー。
ログインしてコメントを確認・投稿する