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2020年08月11日00:51

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「中国」の形成 現代への展望 シリーズ中国の歴史5

シリーズ中国の歴史も最終巻です。前巻で明が滅びたので清から始まって…現代まで到達するの?

さすがに新しいコンセプトの中国史を目指しただけあって、なるほど〜と思うことがいろいろありました。
従来の時代ごとに出来事をつづっていく歴史と違って、「出来事」の記述は少ないです。その代わり中国の社会構造が説明されています。

まず清朝は少数の満州族が大多数の漢人を治める構造です。政治体制は基本的に明代のものを受け継ぎました。そして、社会の基盤をそのままにして、漢人の官僚に満州人の監視をつけました。
北京に入った順治帝が亡くなって康熙帝が即位しますが、康熙帝は稀代の名君と称されます。中国全土を平定して、モンゴルやチベットをも服属させました。そして清朝の統治を完成に導きますが、それでも欠点はありました。特に息子たちの間で後継者争いが絶えず、家庭内の問題を解決できないで天下を統治する資格があるのかと、すでに宮崎市定が疑問を呈していたとか。

康熙帝が没すると雍正帝が即位しました。後継者争いの挙句に最後に指名されたということですが、その使命に対する疑惑も絶えませんでした。しかし康熙帝ができなかった制度改革を行い、制度が追い付かない部分は非公式な部分で末端の意見を吸い上げて対策を講じました。

明代では4巻で見たように、明初には土地をベースに農業社会に基づいた体制が作られました。また、華夷の別を厳しくし、周辺諸国からの朝貢を重んじ、貿易を禁じました。しかし明末になると、体制と実情が合わなくなっていきました。商業が発達すれば、土地を基盤にした戸籍や現物経済推奨では対応できません。そこで通貨というものが必要になるのですが、明代には基軸となる通貨は作られませんでした。その代わり商売のやり取りには貨幣ではなく銀が使われました。地金のままで純度と重さで価値を判断しながら流通しました。

それで、康煕時代はデフレで、乾隆時代にインフレになりました。康煕時代は人がものを買うどころじゃない時代でした。それが、康煕・雍正時代に底を打った景気は上昇に転じました。社会が安定して流通が盛んになり、貿易も増えました。

さて、雍正帝は制度改革に取り組みましたが、乾隆帝はその雍正帝の改革を白紙に戻したということです。改革というものはどこかで不満が発生し、官吏は制度変更に疲れるものです。その反動もあったということです。さらに、乾隆帝は父親よりも祖父を尊敬していました。私は乾隆帝を「おじいちゃん大好きっ子」と呼んでいます。でもこの親子三代ずっとこの調子なんですね。雍正帝は康熙帝に反発し、乾隆帝は雍正帝に反発する。
そして乾隆時代にはイギリスとの貿易も増え、国は豊かになり、乾隆帝はその豊かさを思う存分享受したのでした。贅沢をしたり自画自賛で悦に入ったり…。しかしそれでも名君のうちに数えられているのは、明代の皇帝が本当に政務放棄して贅沢三昧に明け暮れていたのに対し、乾隆帝はまじめで勤勉に政務に励み、国力は充実していた上で贅沢をしていたからです。

また、清朝は中国史でも最大の版図を実現しました。モンゴル、特に内モンゴルは清朝の始祖から結びつきの深い関係です。さらにモンゴルとチベット仏教は関係が深く、チベットを重視しました。そしてダライ・ラマの護衛を理由にラサに軍隊と大臣を派遣しました。とはいっても、歴代の中国の王朝もそうでしたが、こうした地域の統治は中央から派遣した官僚を上に乗せるだけで、実際の統治は現地人で行われ、あまり現地事情に介入しませんでした。「ゆる領土」とでもいいましょうか…(というのは私が勝手に考えた言葉)。しかし、ロシアが北からやってきます。イギリスはインドを越えて南からチベットを侵します。そうなると、条約を結んで「国境策定」をしなくてはなりません。それまで「ゆる領土」だったのが、ここまでは清朝の領土、と決めておかないといけなくなってしまいました。だから、「国境」なんて近代ヨーロッパ人が考えたものなんで…。

乾隆帝は即位の期間が康熙帝と同じ年月に達すると、祖父の在位を越えるのは失礼だという理由で退位します。
その後の皇帝もまじめに善政を心掛けていたのですが、19世紀にはいるとそれまでも問題のあった統治機構は問題が表面化し、さらにイギリスが貿易不均衡の不満を抱き、アヘンをもたらしたことから、清朝は次第に傾いていきます。
ここから近代史に入るわけですが、コンパクトにまとめられていてわかりやすいです。

辛亥革命以降は相当駆け足なのですが、要点が押さえられていて、中国の社会構造に基づいた解釈なので、納得しやすいです。
国民党と共産党の対比、中華人民共和国の成立。ここで軍事・政治上の対立勢力は消滅し、世界から孤立したことで海外との結びつきも遮断され、独自の経済政策を実行することができました。それは結局計画経済なのですが、建国の時期には格差解消や国営企業による一元経営などは効果があったのです。
しかしそれも毛沢東の迷走で国を混乱に陥れることになります。文革における紅衛兵の暴走は「そんなつもりじゃなかった」のかもしれませんが、とにかく暴走して破壊の限りを尽くしてしまいました。
そこで��小平の復権と市場経済の導入により改革開放が始まります。
しかし改革開放が進むと、格差の拡大や腐敗を生みだします。
共産党はそれに対して非常に危機感を持ち、習近平が反腐敗キャンペーンを始め、「法治」の強化に務めます。そうしたら言論統制も厳しくなってしまった。…と、いきなり現在に飛んできました。
つまり、中国は国が分裂することを一番恐れており、特に外国勢力が入り込んでその分裂を進めることを警戒しています。外モンゴルが独立したのさえ痛恨の出来事です(独立したのは1924年なんですが…とはいえソ連の衛星国になったので、ソ連に取られたのが悔しかったというのもあるでしょう)。なので、チベットもウイグルも、まして台湾も、絶対手放しはしません。そのために、弾圧が強くなっているのです。

最後に、清朝は曲がりなりにも多元共存であったこと、それが失われたことが書かれています。「グローバルな世界を形づくった十七世紀」は何だったのか…、と。
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