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2020年07月23日22:58

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「陸海の交錯 明朝の興亡」シリーズ中国の歴史4

2巻で「江南の発展」、3巻で「草原の制覇」ときて、4巻は「陸海の交錯」です。

元が滅んで明が興り、漢民族の王朝が久しぶりに中国を統一しました。
明を興したのは、史上最も低い身分から皇帝に上り詰めた朱元璋。元の末期に国が乱れた時、朱元璋は飢饉と疫病で家族を失い、近くの寺に入って托鉢という名目の物乞いをしていたため「乞食僧」とも言われます。やがて反乱軍に加わり頭角を現していきます。そのため朱元璋が皇帝になる物語はドラマチックで、明初の歴史はそこを重視して書かれることが多いです。しかし、本当に重要なのは皇帝になった後です。皇帝になった朱元璋は、全国的に厳密な測量と戸口調査によって里甲制を施行して税制を整え、官僚制度を改革するなど国を運営するための政策を次々に行います。そのため明は統一王朝としての制度が整い存続していくことになるのです。

一つの王朝が衰退して各地で反乱がおこって国が乱れた時、その中から広範囲に征服を成し遂げて皇帝を名乗ったり年号を定めたりするものがあっても、その後の統治がうまくいかず短命王朝に終わる、あるいは王朝とすら認められないまま自滅することがあります。建国の英雄が必ずしも建てた国を維持統治していく能力があるとは限らないのです。しかし朱元璋は成り上りでいながら皇帝として国を統治する能力があったわけです。

さて、この巻は南方と北方をそれぞれ主題にした巻をふまえて、明が南北を統合したというか、両者を合わせ持った王朝として捉えられています。例えば明が抱える問題として言われるのは「北虜南倭」です。北の遊牧民の脅威は依然としてあり、また南海では倭寇が跋扈します。そして外側の脅威だけでなく、内側にも南北問題が存在していました。統一王朝ができたとはいえ、南北の落差はそのまま残ったからです。それはこのシリーズが中国を一つの地域、王朝としてではなく南方と北方を別々の巻に分けて記述してきたことで一層浮かび上がります。
まず朱元璋は南方出身で、明を興したときには南京に都を置きます。江南地域は豊かな実りによって経済的に潤い、文化的にも成長してきました。明代には南北の格差が顕著になり、科挙を行えば南人ばかりが合格するという有様。なので朱元璋は南北格差を解消するべく一時科挙を中断します。そして北方で教育体制を整え、南北から平等に官僚になるべき人材を選抜する制度を考えます。また、経済的に豊かな南方では貨幣経済が発達していましたが、北方の実情に合わせるため税制を貨幣ではなく穀物などの現物納入にしました。

さて、明の太祖洪武帝朱元璋が亡くなったとき、皇太子である長男はすでに亡くなっていました。そのため孫にあたる建文帝が帝位につきました。建文帝は朱元璋の息子たちが各地に封ぜられて王になっていて、それを脅威に感じていました。そのため諸王たちを取りつぶしにかかります。その時諸王のの一人で、現在の北京周辺に封ぜられていた燕王は座して死を待つよりはと蜂起します。燕王は南京に向かってこれを降し、南京は炎上、建文帝は行方不明に。燕王は皇帝に即位します。永楽帝です。

永楽帝は都を北京に移しました。これは永楽帝の根拠地だからだと思っていましたが、そんな単純な話ではありませんでした。北方にはモンゴルの脅威があったからです。特に北京で北方の守りを固めていた永楽帝は、北京を根拠地としてモンゴルの脅威に備える重要さが身に染みていたのです。元は北京から去ったものの、北方に北元を建てていました。モンゴルからすれば、中国の領土を失っただけで、モンゴル高原で依然として大国としてふるまっていたのです。万里の長城が現在見られるような形になったのは明代です。明代にはそれだけモンゴルの脅威が切実だったのです。
また、北京に都を移すことは、南北格差を解決することにもつながりました。永楽帝は、江南から糧食などの輸送を行うために運河の整備をしました。これによって江南の経済体制と北京の軍事・政治体制を結び付けることになりました。
紫禁城が作られたのも明時代です。

さて、明では当初から徹底的に「内向き」の政策がとられました。外国との自由貿易を禁じ、周辺国から朝貢を求め、朝貢品の返礼として明の物産を下げ渡す、という形で交易が行われました。内では南北の統合を図り、漢民族の統一中華の国が周辺諸国からの朝貢を受ける、という形で「華夷の別」を徹底しました。そして国内では里甲制を制定して土地と人を結び付けた戸籍を作り安定した税収に結び付けました。

しかし貿易はいくら禁じても密貿易が絶えません。北方の遊牧民は、生活物資を得るために都市との交易が欠かせないのですが、明が国境を閉じているので武力で侵入してきます。国内でもこの時代は都市が発達し、商売が盛んになり、貨幣経済が発達していきます。富裕な商人も増えていきます。表向きはガチガチの統制を掲げながら、実態がどんどんかけ離れていきます。

しかも明の時代は、最初はよかったものの、そのあとはロクな皇帝がいません。二十歳も年上の貴妃に溺れて好き放題させて国を乱したとか、遊びまわって政治を顧みなかったとか、道教の丹薬作りに熱心になって、結局は中毒死したとか、ぜいたくしたい放題で財政を圧迫したとか。

それと並行して東北部ではジュシェン人の中からヌルハチが現れ支配を固めていきます。ヌルハチはアイシン(後金)国を建て、領土を広げていき、現在の瀋陽に都を置いて宮殿を建てました。ヌルハチの子、ホンタイジは「ジュシェン」を「マンジュ」と変え、国号を大清として皇帝に即位しました。

また、明の国内でもたびたび乱が起こっていましたが、明末に頭角を現したのが李自成です。李自成は西安で大順を建国します。そして北京へ攻め上り、紫禁城を陥落させます。明の最後の皇帝、崇禎帝は紫禁城を玄武門から脱出し、景山に上って木に縄をかけて自殺しました。

一方ホンタイジの方は、いずれ南下して明を降し中国を支配したいという野望を抱いていました。しかしその境界線となる山海関には呉三桂の軍が守りを固めていました。しかし明が滅び、李自成が紫禁城に入ると、呉三桂は清に寝返ります。そうして清はあっさり山海関を越えました。そうして北京に迫ると李自成は北京から逃げ出しました。しかしホンタイジはすでに亡く、幼帝順治帝が後を継いでいました。その摂政となっていたおじのドルゴンが先導となって紫禁城に入りました。李自成は各地を転戦したものの勢力は回復せず、追い詰められた挙句農民に殺されました。

ということで、またもや征服王朝の誕生です。しかし清は明の専制体制を受け継ぎます。さてその清朝の統治はどのように展開していったか…は、次巻ということになります。
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