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2019年01月26日02:22

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福島旅行記(11)飯盛山1・白虎隊自刃の地

バスは飯盛山のふもとに着きました。
飯盛山に上るのに上の方までずーーーっと階段があります。登るのはかなり大変そう…なのですが、ここにはスロープコンベアというものがあります。スロープの動く歩道です。エスカレーターではなくスロープが上まで動いて運んでくれるのです。有料で、バスの1日乗車券で割引あり。
で、乗ってみたのですが、けっこう大変です。スロープが少し急で、まっすぐ立っていようとすると手すりにしっかりつかまっていないといけません。

ようやく上までたどり着きますと、広場があります。あちこちに数字が掲示してあって、見どころの順序を示してくれます。登ったところから左手の方に自刃した白虎隊士19人分の墓が並んでいます。線香の煙がたなびきたくさんの人がお参りしています。
広場から自刃の地へ降りる階段がありました。降りていきますと、白虎隊士自刃の地があります。小さい像が一つ、手を目の上にかざしてお城の方を眺めています。

白虎隊士は15歳から17歳までの少年たちで構成され、本来なら戦場に出るはずがなかったのが切羽詰まった状況から出陣を命じられたものの、敗退して飯盛山にたどり着き、ここからお城が燃えているのを見て「もはやこれまで」と覚悟してみんなで自刃した…と言われています。しかし、実際にはお城ではなく城下町に火が放たれていたのを見誤ったとか。

詳しく調べてみますと。
幕末に会津で年齢別に編成された四つの部隊がありました。部隊の名前は四神の名前から来ています。
玄武隊…50歳以上
青龍隊…36歳から49歳
朱雀隊…18歳から35歳
白虎隊…16,17歳

それぞれの隊にはさらに下部組織があります。
白虎隊の場合は

士中一番隊・二番隊
寄合組一番隊・二番隊
足軽一番隊・二番隊

これは身分別の分け方で、士中、寄合組、足軽、と身分が低くなっていきます。
戊辰戦争で新政府軍が会津に迫っていた時、白虎隊はそれぞれの隊ごとにいくつかの方面に分かれて出陣することになりました。そして寄合組から何人かの戦死者も出ました。
新政府軍が猪苗代まで迫ってきたとき、藩主・松平容保は飯盛山のふもとの滝沢本陣に来て、白虎隊士中二番隊の出陣を命じました。そして戸の口原へたどり着いたところで新政府軍が進軍してきて戦いになりました。

士中二番隊はさらに小隊に分かれて別々に行動しました。そして互いの動向がわからないまま退却することになりました。このうち篠田儀三郎が指揮を執った小隊は飯盛山までたどり着き、水をたたえた洞門を潜り抜けて城下に戻ろうとしました。しかし洞門を抜けて山に登り、城下の様子を見ようとすると。煙が上がっているのが見えたのです。
「自刃の地」から見ますと、お城ははるか遠くではっきり見えません。城下はすでに攻撃に遭って煙が上がっていましたが、それがお城に及んでいるかどうかまでははっきり見えなかったのでしょう。
この時白虎隊士たちは議論の末ここで自刃する決意をしました。
そうして腹を切ったり喉を突いたりして果てたわけです。

白虎隊は全ての隊を合わせると300人ほどの人数だったそうです。そのうち士中二番隊の、さらに小隊に分かれたグループの一部が飯盛山に来て自刃の道を選んだわけです。その他の隊士たちは敗走して逃げたり、籠城が行われた鶴ヶ城に入城したりしています。

さて、自刃した白虎隊士のうち、喉を突いたものの死にきれずにいたところを助けられた者がいます。飯沼貞吉と言って、明治になって電信技士となり逓信省に入りました。78歳で仙台で亡くなりましたが、自刃の地へ降りる階段の途中に飯沼貞吉の墓碑があります。

一般には白虎隊は飯盛山で全員自刃して飯沼貞吉が「たった一人の生き残り」などと言われたりするのですが、実際はそうではありませんでした。

しかし自刃の地を見て、19人の墓が並んでいるのを見ると、痛ましい思いが湧き上がってくるのには変わりありません。会津が賊軍扱いされていわれのない攻撃を受け、そのあげくに少年たちの出陣をうながし、主君に対する忠誠をつらぬいて自刃の決意に至った悲劇…。

さて、この白虎隊の話は「賊軍」のことでもあり、明治になってもおおっぴらに語られるものではありませんでした。しかし明治の中ごろになると飯盛山に墓がたてられ、白虎隊士の慰霊が行われるようになりました。やがて教科書にも白虎隊の悲劇の記述が現れるようになります。
しかしその記述は「けなげな最期」というふうに記され、主君に殉じた美談として広がっていきます。そして忠君愛国を説く時勢に合わせて称賛されるようになっていきました。賊軍として攻撃して自刃に追い込んだ側が、今度は国策に利用したのかと思うと、白虎隊に対する評価が高まったと素直にいえないものを感じます。
さらに、イタリアから古代ローマの宮殿の花崗岩の石柱が贈られ、ドイツからも「ドイツ碑」が寄贈され、この広場に建てられて「海外からも高く評価された」と言われるようになります…が、それは日独伊三国同盟ではありませんか。

戦後、進駐軍がやってきて、イタリアの石柱のファシストのマークを取り除き、碑文をセメントで埋めました。ドイツ碑も壊されようとしましたが、飯盛山の茶店のおばあさんが隠して守りました。後になって再び広場に建てられました。

白虎隊の評価も時代に翻弄されたのですねえ。

広場には洋風のモニュメントがあるので最初見たときはなんだろうと思いましたが、イタリアとドイツから送られたものだったのです。イタリアの石柱、かなり大きいです。
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