「最後の遊牧帝国」を読んだら、「カラ・ブーラン」の下巻も読みたくなってしまいました。下巻はガルダン以降の清朝と北・中央アジアの関係が書かれています。
まずガルダン死後のジュンガルでは、ガルダンの甥のツェワンアラブタンが康熙帝に帰順しました。しかしツェワンアラブタンは他のオイラトを併合し、青海に侵攻しようとしたので、康熙帝は改めて征討を計画します。征討軍が出発したのち、ツェワンアラブタンが死亡し、その子のガルダンツェリンがジュンガルで覇を唱えようとしました。そうしたら、その征討が終わらないうちに康熙帝が崩御しました。跡を継いだ雍正帝はそのままジュンガル征討を続けます。
そうするうちに、チベットでも内紛がおこり、それがガルダンツェリンもかかわっていました。
ということで、チベットとジュンガルの平定は困難を極めますが、雍正帝は粘り強く解決の努力をします。しかし和議を実現させることができないまま崩御し、この問題は次の乾隆帝に引き継がれます。
さらにそれは「回部」の平定にもつながっていきます。
「回部」は現在の新疆に当たる地域です。そこに住む人々は「纏頭回(チャントウホイ)」と呼ばれていました。ターバンを巻いたイスラム教徒と言う意味です。この時代には「ウイグル族」という民族はありませんでした。そもそも「「纏頭回」という言い方は固有名詞ではありませんし、独立性の強いオアシス都市が並び立っていて、民族的にひとつにまとまったアイデンティティはありませんでした。
乾隆帝は、「回部」でも西半分にあたるクチャ、アクス、カシュガル、ヤルカンド、ホータンを攻略します。この地域にジュンガルが侵攻していたからです。そしてジュンガル平定後も清朝に抵抗する勢力が残っていました。乾隆帝はやはり粘り強く回部の平定を行っていきました。
乾隆帝の回部平定をもって記述は終わるのですが、やはりなじみの薄い固有名詞の洪水で、適当な理解で終わりました。ただ、回部平定になりますと、それぞれのオアシス都市は熟知していて位置関係も良くわかります。ただ、この時代のことに詳しくないので人物もよく知らないので。
そうしたら、あとがきを見て、この本の成り立ちに驚きました。
この本は、上巻が康熙帝の「親征朔漠方略」、下巻が乾隆帝の「平定準噶爾方略」をもとにして書かれています。
著者は宮城県の中学を卒業後、旧満州の奉天で中国文学を学び、満鉄から派遣されて北京へ留学。調査研究員として北京に滞在しているときに、国立図書館でこの本と出会ったのです。戦後やむなく帰国しますが、日本国内でなんとかこの本の所在を手を尽くして探しますがどうしても見つかりません。あきらめて幾年月…。1979年に台北の故宮博物院へ行く人がいるから調べてもらったらどうかと言うアドバイスをもらい、事情を話してお願いをしたところ、複写本があることが分かったのです。
そうして何年もかけてこれらの本の現代語訳を完成させたということです。
しかし、当時の公文書であるため、それをそのまま翻訳しただけでは理解が難しい。より多くの人にその内容を伝えるために解説案内書として急遽書いたのがこの「カラ・ブーラン」だということです。その内容を理解するためには、本当は地名・人名・役職名などの注解や解説ももっと必要だが、自分にはもうそれをする時間がないのであえて不完全を承知で出版したということです。
そして後人の研究と批正にゆだねると書いてありますが、この研究を受け継いだ人はいるのでしょうか。また完成させたという現代語訳はどうなったのでしょうか。初版は昭和61年。著者の名前を検索してもネットには詳しい情報は出てきません。
「最後の遊牧帝国」の文献一覧には「親征朔漠方略」と「平定準噶爾方略」が記されています。この内容を扱う研究者なら、当然把握しておくべき史料でしょう。その際千葉宗雄氏のこの研究成果との関連はあったのかどうか、ちょっと気になりました。
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