これからは旅順博物館でもらった「旅順博物館95年簡史」の中から大谷探検隊の部分の日本語訳をUPしていきます。
相変わらずぎこちない日本語だなあ、と思いつつ、どこまで意訳していいか、がこれまた難しく…。
「旅順博物館95年簡史」より
第三章 館蔵文物の由来
第三節 大谷光瑞と旅順博物館
旅順博物館では特色のある豊富な館贓品があるが、そのうち「大谷コレクション」と呼ばれる新疆および中央アジアの文物は数量も多く価値も高く、重要な位置を占めている。これらの収蔵品を通じて大谷光瑞と旅順博物館は切っても切れない縁で結ばれているのである。
「大谷コレクション」は大谷光瑞個人の名前による一大コレクションである。大谷光瑞伯爵(1876年12月27日‐1948年10月5日)は京都の人で、西本願寺第22代法主にして探検家。二十一世本願寺明如上人の長男である。十歳で得度し、学習院を卒業後ヨーロッパに留学。1898年、のちの貞明皇后(大正天皇の皇后)の姉九条籌子と結婚。1899年と1906年の2回中国に視察旅行、1899年からロンドンに3年留学。明治三十五年(1902年)留学からの帰国を利用して仏跡を訪ねる目的で大谷探検隊を組織し、中央アジア・パキスタン・アフガン・インド・中国新疆などへ行き、遺跡を訪ねて文物を収集した。これが第一次大谷探検隊であり、大谷光瑞自身が参加した唯一の探検である。
この探検活動の期間、1903年に大谷光瑞は父親の明如上人の死によって帰国し西本願寺の法主の地位を継ぎ、法号を鏡如上人とした。日露戦争の後、大谷は本願寺の弟子橘瑞超・野村栄三郎・芳川小一郎を相次いで第二次探検隊(1908-1909年)、第三次探検隊(1910-1912年、1911-1914年)に派遣し、主に新疆のトルファン・楼蘭・クチャ・ホータンと敦煌などに行って大量の出土品を得た。いずれもシルクロードに残された貴重な品である。
何年かにわたり、我々はずっと誤った理解をしていたのだが、大谷探検隊というと、上述の3度の中央アジア・西域探検を思い浮かべるが、実際はイギリスに留学していた時から大谷光瑞はアイスランドや極地探検に行っていたのである。
さらに3度の中央アジア探検に前後の期間にも、大谷は中国の雲南・四川などに調査のために人を送り3度の探検隊の往還の途中でも内モンゴルや中原各地・長江流域の調査を行った。さらに1912からは大谷光瑞とチベットのラマ13世との間で互いに本願寺の弟子とチベット僧を留学生として交換し、そのことからチベット地域の調査の結果も重要である。
そのため「大谷コレクション」には中央アジアと西域文物を中心にして、中国内地・内モンゴル・チベット・雲南などの諸地域の文物資料も含まれる。大谷探検隊がどれだけの文物を収集したのか、現在では正確な統計を取ることはできないが、今後さらに研究を進め、そして国際的な学術協力交流を深めて行けば、研究が完成する希望も見えるだろう。
第一次探検が終了した後、持ち帰った文物のうち一部は京都の本願寺内に置かれ、一部は京都恩賜博物館(現在の京都国立博物館)に置かれた。文物の量が膨大なことから、1909年に大谷光瑞の主導で、本願寺は阪神間の武庫郡須弥月見山に新しく別邸・二楽荘を新築し、「大谷コレクション」の主要な保存・研究の拠点とした。
現在保存されている、当時の「大谷コレクション」の記録である「書画表装記録」によると、当時の整理は分類番号・表装分類・写真を含み、我々はこの記録のうち絹織物・紙製品の整理を見ることができるが、その他の文物の整理状況は記されていない。しかし「大谷コレクション」が二楽荘に保管されていた時期に2回公開展示されたことがあり、展示品の中に「大谷コレクション」の種類別文物を見ることができ、その他の種類別文物もこの期間に相当整理されていたはずである。
1914年、本願寺は多年にわたる大規模な調査隊や二楽荘の建設、さらに日露戦争の時に資金援助を行ったことで、財政の負担が大きくなり、深刻な財政赤字を招いた。そのことで大谷光瑞は1914年5月17日に法主を辞職した。この後二楽荘は競売にかけられ、「大谷コレクション」は分散した。
現在の収蔵状況から見ると、「大谷コレクション」は主に三つの部分に分かれている。
一つは日本の東京国立博物館だが、これはもともと京都恩賜博物館にあったもので(1904年に展示)、1944年に木村貞造が購入し、後に博物館に寄贈したものである。
二つめは1915年の橘瑞超が作成した目録によると、当時の朝鮮総督だった寺内正毅に売却されたもので、現在は韓国のソウル国立博物館に収蔵されている。
三つめは大谷光瑞自身が旅順に運び、現在旅順博物館に収蔵されているものである。旅順に運び込まれた「大谷コレクション」の8000点余りの大谷文書の一部が、のちに橘瑞超によって日本に持ち帰られて龍谷大学に収蔵されている。
1914年大谷光瑞は法主の地位を辞職してから、海外での遍歴と布教の人生が始まった。そして中国の旅順を居留地に選んだ。1915年大谷光瑞は旅順の新市区にロシア風の建物を購入して、まず大量の蔵書(この蔵書はのちに「大谷文庫」と称される)を上海経由で旅順に運んだ。1916年、保管されていた大谷コレクションも合わせて旅順に運ばれ、預かりという形で、建設されたばかりの関東都督府の満蒙物産陳列館に預けられた。この陳列館は旅順博物館の前身であり、旅順博物館と「大谷コレクション」はこの時から深いきずなで結ばれたのである。
実際には、旅順博物館と大谷光瑞が直接かかわった収蔵品は二種類に分かれる。主要なのはこれまで述べた「大谷コレクション」であり、他は大谷文庫の蔵書である。以下それぞれ紹介していく。
館贓品から見ると、中央アジアと西域の文物は最初から「大谷コレクション」の主要な部分を占めており、古代インド彫刻と中国の新疆と甘粛のシルクロードの文物と二つの大きな要素からなる。
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