これらの漢籍は日本でも求めても得られない稀覯本中の稀覯本であることから、1916年の春、日本人の「大連支那珍籍頒布会」は大谷光瑞の蔵書をもとに「含秀居叢書」を限定350種刊行することを決定した。しかしこの計画は実施されると同時に頓挫した。それはこの漢籍の運命が再び変化したことによる。これらの書籍は旅順大谷邸に長く置かれることはなく、満鉄大連図書館に運び込まれたのである。それは1915年9月から始まったようだ。なぜ満鉄大連図書館に運び込まれたのだろうか。これについては、のちの学術界でも諸説紛々である。
「保存説」の理由は、大谷光瑞は大連の気候が乾燥していて図書の保存に適していると考えたことだ。「乾燥」と言っても神戸や上海と比べてであるが、この時これらの漢籍は神戸から上海を経由して来ており、上海で正金銀行の倉庫に3カ月もの間保管されていた。中国の南方の6月から8月の気候によってこれらの漢籍が被害を受けたことは間違いなく、多くが湿って虫食いになったことはほぼ証明できる。保存条件からすると、アメリカで特注した鋼鉄の書架を配した東アジア一流の満鉄大連図書館が一番だろう。大谷光瑞の「四界を家となす」遍歴の一生から照らし合わせると、「保存説」は情から見ても理から見ても矛盾はしない。
「整理説」の観点は、大谷光瑞はこれらの書籍の出版を計画していたことだ。二楽荘から大谷邸に運ばれた資料の内これらの漢籍のほかに文物も含まれており、これらの文物は大谷邸に運ばれてのち橘瑞超が整理を担当した。橘瑞超は第二次と第三次の大谷探検隊の隊員だったことがあり、1916年5月から1917年12月末までずっと旅順大谷邸で文物の整理作業をしていたが、これらの漢籍の整理に関しては何も記載するところが見られない。のちの関連研究から推測すると、当時これらの漢籍はまだ整理されていなかった。「二楽荘叢書」と「含秀居叢書」の出版刊行は、いずれも漢籍の整理問題に及ぶことは必然であり、それを任せる先としてまず満鉄大連図書館が選ばれたということだ。
「抵当説」はさらに十分な証拠がある。大谷光瑞は1914年に法主の職を辞してからも事業活動をやめることなく、南洋各地に農場を開いたり、中国のとりわけ東北地区で宗教活動を行ったりしたため、多大な経費を必要とした。これらの活動を支えるには財政支援が必要だったため、大谷光瑞はこれらの漢籍とその他の財産を抵当にして満鉄から巨額の借金をしたというのは筋が通っている。借金の事実を詳しく調べるにはなお考証を俟たなくてはならないが、しかし大谷光瑞と満鉄の関係からすると充分考えられることである。
ログインしてコメントを確認・投稿する