…という結びつきそうにないものの組み合わせを楽しめる展覧会がありました。
それは…
「二楽荘と大谷探検隊」(龍谷ミュージアム)
です。
大谷探検隊とは、西本願寺第22代宗主・大谷光瑞が、仏教の来た道を明らかにするためにインドや中央アジアに送った探検隊です。19世紀末〜20世紀初頭にヨーロッパ各国が「最後の秘境」として続々と中央アジアに入り、発掘調査をして古代文明の様相を明らかにしていきました。それを見た大谷光瑞は、仏教徒である自身が仏教の来た道を明らかにする使命があると考え、探検隊を送ったのです。
ミュージアムの2階部分では大谷探検隊の詳細が紹介されました。探検に参加した隊員全員の写真やプロフィールや遺品が展示されていました。旅行鞄がまとめて展示してあったり、旅券があったり。当時の旅券は日英仏中4か国語で書かれていました。クチャ周辺の地図には「庫車」と書かれており、年代を見ると1900年代初頭で、清朝時代から「庫車」の表記が行われていたことがわかりました。また、大陸を渡ってヨーロッパへ赴く伊東忠太と探検隊が出会っており、伊東忠太の描いたスケッチも展示されていました。
研究の成果である西域考古図譜やら新西域記のごつい、デカい、とても持ち歩けそうにない立派な本も展示されていましたが、これ、もう少し簡便な形で出版しなおしたりしてもらえないものか。「西域考古図譜」は府立図書館にありますが、デカすぎて見るのも大変なんで…。
そして3階は二楽荘の展示です。
二楽荘は大谷光瑞が六甲山に建てた洋風の別荘です。京都の祇園閣とか築地本願寺とか、変わった建築を建てた伊東忠太からも「本邦無二の珍建築」と言われたほどです。そこに探検隊が収集してきた資料も持ち込まれ研究されました。しかし1932年に火事で焼失しました。
今回、この展示のために改めて二楽荘の実態が調査されたそうです。
まず二楽荘のミニチュア模型があります。二楽荘は平面図がなく、焼け跡から出土した煉瓦や当時の写真を集めてサイズを調べて作られたということです。やはり風変わりな印象を受ける建物です。壁のひし形の線、不思議なドーム。明治末期の不思議な近代建築です。
そうしたら、今回の調査で、正式な建築図面ではありませんが、平面の部屋の配置がわかる図が発見されました。その図を見ながら、各部屋の写真を見ていきますと、二楽荘がどんなものであったかよくわかります。古典英国室、近代英国室、アラビア室、支那室、インド室と名付けられた部屋があり、なんとなく「それっぽい」雰囲気はあるものの結局はヘンテコな洋館だな〜と思います。アラビア室は、アラベスク模様の壁に、中央に噴水をしつらえてそれらしく見せています。
さらに、この地に「武庫仏教学校」を建てて仏教精神に基づく人材の育成を行ったり、農場経営をしたりもしていたそうです。牧場の牛の牛乳を販売したり、温室を建てて日本で初めてマスクメロンの栽培を手掛けたり。さらに気象観測所まで作り、翌日の天気をライトの色で周囲に知らせていたとか。また、山の上にあるためケーブルカーを作って登れるようにもなっていたそうです。
しかし、大谷光瑞は多額の負債を抱えて法主を辞任し、二楽荘を売却します。中にあった探検隊のコレクションはその時、日本の湿潤な気候よりも大陸の方がいいという判断で朝鮮半島に送られました。
そして使われなくなった二楽荘は荒廃し、原因不明の出火で全焼してしまいました。
当時の新聞記事が展示されていましたが、新聞を見ると時代の雰囲気を強く感じますね。
大谷コレクションは、現在は韓国の国立中央博物館と中国の旅順博物館に分散していますが、大谷光瑞は大連で隠居したそうで、朝鮮に送ったコレクションが旅順にも分散したのはそのためかもしれません。
そうして、帰ろうと思ったら、入口にチラシ類があるので見てみました。そうしたら…ものすごく危険なものを見つけてしまいました。
「大谷探検隊の軌跡をたどる旅順4日間の旅」
龍谷ミュージアムの館長と龍谷大学の名誉教授が同行して、旅順博物館で解説してくれて、普段見ることのできない大谷探検隊の展示物が見られる!
これは…行かないわけにいかなくない?
帰りに、難波で高島屋東別館に行ってきました。
これは11月1日・2日に行われている「生きた建築ミュージアムフェスティバル」の一環で、この東別館内にある高島屋史料館で展示解説があったからです。他にも大阪市内のいろいろな建築でいろいろなイベントがありますが、帰りに寄るのに一番行きやすかったので。
史料館は高島屋の歴史がわかる展示があり、全国の百貨店でもお店の歴史の史料をこれだけまとまって保管展示しているところは他にないそうです。
高島屋はもとは京都の呉服屋でした。天皇が東京へ移って京都がさびれかけていたところ、京都の画家に原図を依頼して高級織物に仕立て、当時世界各国で行われていた万国博覧会に出品して好評を博し、いろいろな賞をもらったそうです。
その後大阪の堺筋に出店しました。もともとこの東別館は当初は松坂屋だった建物で、高島屋は心斎橋の近くに店を構えたそうです。堺筋は三越、白木屋と百貨店が並び、大阪のメインストリートでした。しかし、大阪市の関市長が御堂筋を作り(当時「飛行機の滑走路でも作る気か」と言われ、とんでもない道幅に周りをあきれさせたとか)、南海電車がそこにターミナルを作り、駅ビルを建てるのに、まず三越に打診をして店を入れないか誘ったそうです。しかし当時の高島屋の経営陣が、これからは堺筋ではなく御堂筋だと読み、三越と争って出店を勝ち取ったそうです。そこに出現したのが豪華な外観の現在の高島屋です。最近修復されてピカピカですが、元の建物をきちんと残してくれたのはありがたいです。
東別館はその後松坂屋が天満に移転して、高島屋が獲得しました。堺筋に面した部分はきれいな壁の立派な建物ですが、実は3回建て増しをして、裏に回ったらそのことがわかりますから後で見てみてください、と言われました。それで解説が終わった後建物を出て裏に回ってみました。そうしたら、きれいな表の外観と打って変わってゴチャゴチャデコボコした建物でした。
東別館の表は、アール・デコ風の装飾がとても立派で、大丸心斎橋店にも負けないぐらいです。エレベーターの両端にはアカンサスの装飾で、他にもアカンサスのモチーフがたくさんあるので探して見てくださいと言われたのでいろいろ見てみました。1階のエレベーターホールの天井や外観にもたくさん使われていました。
ログインしてコメントを確認・投稿する