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2024年10月11日01:47

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「赤と青のガウン」

「赤と青のガウン オックスフォード留学記」
彬子女王:著 PHP文庫

最近になってSNSでバズったということで、私も知りました。
彬子女王は昭和天皇の弟、三笠宮崇仁親王の孫。三笠宮と言えば、古代オリエント史の研究者。天皇の息子は親王、娘は内親王。親王の子供は親王、親王の孫は男子が王、女子が女王になります。なので彬子女王。

最初はオックスフォードに聴講生として1年間留学したのですが、その後きちんと学位を取りたいと思うようになり、学習院大学を卒業後正規留学生として入学したのでした。最初は修士課程を目指していたのですが、研究の内容を知った教授から、この内容なら修士論文ではなく博士論文を目指した方がいいと勧められました。そこで予定していた留学期間が伸びて博士論文に挑戦することになりました。

まずは聴講生として留学した時のことから始まります。

さすがオックスフォードは厳しいですね。座って講義を聞いていたらいい、ようなものではなく「論文地獄」というぐらい研究課題について書かされる。そのために図書館にこもって調べまくる。

彬子女王はもともと史学科で、最初ケルト史を研究しようと思ったそうです。ケルト!!すてき!!イギリスですから専門家もいてくわしく研究できそう。

と、思ったのですが、なぜか日本美術の研究をすることになってしまいました。
なぜかといいますと。
日本では明治期に脱亜入欧の風潮で、美術品が大量に国外に流出しました。日本人が顧みなくなった昔の美術品を、外国人が買いあさりました。欧米の著名な美術館にはそういった日本美術のコレクションがあちこちにあります。そして、大英博物館にはそれこそ膨大な日本美術のコレクションがあります。つまり、日本人が脱亜入欧にかまけて自国の伝統美術をないがしろにしている間に、欧米人が手に入れた日本美術のコレクションをもとに日本美術の研究を進めていたのです。特に大英博物館を擁するイギリスでは質量ともに豊かな研究の蓄積が行われてきました。

彬子女王は、19世紀末から20世紀にかけて、「西洋人がどのように日本美術をみていたか」を明らかにする研究をしようと思ったということです。現在の日本美術史の基礎は、英国人がこのころ作り上げたものが土台になっているということです。
なので研究のために大英博物館に通うことになりました。

オックスフォードの指導教授は実に厳しい。どれだけ課題を提出しても直されてばかり。返ってきたら「NO」だらけ。必死の勉強ぶりが伝わってきます。

そして、大英博物館で大発見をします。
まず最初にカタログの中に法隆寺金堂壁画の写し、と書いてあるのを見つけます。大英博物館の日本コレクションの教授も「見たことがない」と言います。そこから大捜索です。そうして折りたたまれた薄い紙を見つけました。かなりの大きさで、閉館後人がいなくなったギャラリーで広げて見ますと。
法隆寺金堂壁画の「弥勒浄土図」が現れたのです!
調べてみますと、1879年に日本の絵師に模写させたものだということがわかりました。

私ももう大コーフン!しました。法隆寺金堂壁画ですよ!!焼ける前の!
しかもさらに数か月後、ロンドン大学で法隆寺金堂壁画の複製が展示されました。これは1938年に京都の印刷会社が壁画の写真を元に複製したものです。展示会の説明によりますと、金堂壁画12面の複製のセットが英国に2組渡っており、1組は今回の展示、もう1組は大英博物館に入った、といの記述がありました。大英博物館に戻って調べてみても、そんな記録はありません。しかししばらく探したのち、ほこりだらけの箱を発見。12の箱に12の複製壁画がみつかったのです。

読んでてもうめまいがしそうになりました。留学中にこんな大発見をするなんて!
すごいなあ、大英博物館。倉庫の片隅にこんなとんでもないものが眠っているなんて。

そのほか、普段の生活の様子も書いていて、日本では常に皇族として見られていますが、イギリスにいると普通の「アキコ」として行動できるギャップ。
また、文中に「侍女」という言葉が出てきて、今の時代にも「侍女」がいるのか!とこちらが驚く。

そうしてついに博士論文の執筆です。史料調査をして、指導教授の厳しい指摘を受けながら論文の方向を定めます。全ての準備ができたらいよいよ執筆にとりかかるのですが、ずっとパソコンに向かって執筆作業を何日も続けるのは相当大変な苦労だったようです。
ついに完成した論文を提出して審査を待つ状況は、読んでいるほうもハラハラドキドキしました。
すごいですね。これだけの苦労をしてオックスフォードで論文を書き上げたなんて。この本は彬子女王がオックスフォードで博士号を取るための努力の軌跡でした。

さて、最後にお父様との思い出が書かれているのですが、彬子女王がこの本を書いたのはお父様との約束だったということです。日本での公務をお休みして留学する以上は、そこで何をしたかを国民に伝える義務があると考えられたからでした。おお、ノブリス・オブリージェ。
色々な意味で大変興味深い本でした。
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