まだまだ続く、マルコネタ。
久しぶりに歴史「オタク」ぶりを発揮しているような気がします。
さて、「東方見聞録」の成立については下記のような話が伝えられています。
ベネチアとジェノバは仲が悪く、マルコが帰国後に戦争になりました。その時マルコはジェノバの捕虜になり投獄されました。牢獄で捕虜仲間の間で雑談をするうち、マルコの話が突拍子もなく無類に面白い。そこで捕虜仲間で「物語作家」のルスティケロがそれを書き留めました。やがて和平が成立してマルコはベネチアに帰りますが、マルコが口述した本は評判になってヨーロッパ中に広まっていきました。
さらに、もしマルコが捕虜にならなければ普通に商売をして暮らしていて、ルスティケロに会うこともなく、自分が見てきたことを書くこともなかっただろう、ジェノバの捕虜になったおかげでこの本は生まれたのだ、とも。
さらに、ジェノバの牢獄で口述筆記をするのに、マルコが書き溜めていた旅行メモをベネチアから取り寄せることすら許されました。「東方見聞録」の詳細さをみますと、単に記憶をしゃべっただけではこうはなりません。よほど詳しいメモを残していたと思われます。どれだけ膨大なメモだったんだろうと思います。
マルコが自分がしたことをほとんど書いていないことについては、当時の人は身辺雑記などを書く習慣がなかったからだと思います。
そもそも中世のヨーロッパでは、書面語と言えばラテン語でした。キリスト教が学問の中心の時代です。学術用語もラテン語。公文書などもラテン語で書かれました。普通の人が日常しゃべっている言葉はほとんどが正書法が定められていませんでした。マルコはイタリアでもベネチア〜トスカーナあたりの方言を話していた可能性が高く、当時は標準イタリア語と言うものも存在しません。ドイツ語だってフランス語だって標準語がなく、地方によってそれぞれの言葉をしゃべっていました。なのでほとんど正書法と言うものがなかったのです。そもそも識字率が極めて低い時代です。学問のある人はほとんどラテン語を書いていました。
ということで、マルコが文字を知っていたのは商売のために覚えたからだと思います。マルコがどういった言葉で記録していたのかわかりませんが、残していたメモは文章ではなく情報の羅列だったのではないかと思います。商売のため、あるいはフビライへの報告のため。
それを文章として書き起こしたのがルスティケロですが、物語の語り口もある程度定番の言い回しがあったようで、そのため「東方見聞録」では文章が形式化していたり記述がパターン化している所が見られます。
さて、次にルスティケロのことです。よく「物語作家」と書かれています。「物語作家」って何よ?
こちらも調べてみました。そうしたらどうやら「物語作家」というのは「ロマンス作家」の訳のようです。「ロマンス」と言っても現代でいう恋愛ものではなく、中世ヨーロッパ、とくにフランスで英雄譚や伝説などを元にした物語が書かれたのでそういったものを指します。しかし「ロマンス作家」では誤解を招くので「物語作家」。
ルスティケロはアーサー王物語や円卓の騎士物語などを書いていたようです。
ルスティケロはピサの人ですが、イングランドのエドワード1世に仕えていました。当時のイングランド王室ではフランス語が使われていました。そこでルスティケロはもとは傭兵として来たらしいんですが、やがて「ロマンス」をフランス語で書くようになりました。現代のフランス語とは違う、古フランス語です。フランス語はヨーロッパの広い範囲で使われており、「ロマンス」が書かれて書法もある程度整っていました。
しかし「東方見聞録」はイタリア語がかった古フランス語で書かれたと思われます。
現在残っている最古の写本がイタリア語がかったフランス語で、これが原本に近いようです。(といっても原書の写しではなく、写しの写しの写しか、そのまた写しか、ぐらい隔たりがあるらしい)。
イタリア語もフランス語もラテン語にルーツを持つロマンス語系の言葉で近い言語です。なので語彙やつづりが混同して使われたようです。
ルスティケロは古フランス語でロマンスを書いていましたが、イタリア語、それも多分トスカーナ方言を話すマルコの言葉を書きとろうとしたら、書き言葉としては慣れたフランス語で書こうとしたのがイタリア語交じりの混合語になってしまったのかもしれません。
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