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2019年01月04日23:27

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福島旅行記(8)日新館と山本家跡

鶴ヶ城の西出丸からお城の外に出ます。西側には日新館跡と山本覚馬・八重の生家跡があるのです。
石垣の外側に堀があって、西側に広い道路があります。そこを渡ると「日新館跡」の石碑があります。

日新館とは会津の藩校です。会津藩士の子弟は10歳になるとここに入って書物や武術を学びます。ます教えられるのは「什の掟」です。「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」などといった教えの後に「ならぬことはならぬものです」という言葉が付き、これは会津の人の心に刻まれるべき教えとなりました。日新館の学問水準は高く、江戸時代の藩の中でもトップクラスでした。
日新館は戊辰戦争の時に焼かれました。今は郊外に再建されて観光名所になっています。そこまで行く時間はありませんでしたので跡地だけ見ました。天文台跡があるということで周辺をさがしてみましたがわかりませんでした。敷地そのものがたくさんの施設があってとても広かったのです。

道路沿いに南へ進み、細い路地に入ると山本家の跡地に碑文と解説があります。
新島八重、旧姓山本八重のことを知ったのは大河ドラマ「八重の桜」です。明治にキリスト教の学校を建てた夫妻のハイカラな生活を期待して見始めたら、会津の話がずーっと続いていました。そこで八重が京都に来る前の会津での状況を知ったのです。
山本家は砲術指南の家で、長男の覚馬は八重より十八歳年上。江戸に遊学に行ったあと会津に戻って日新館に蘭学所を設け、砲術指南などをしていました。八重はかなりの力持ちで四斗俵を肩に担ぐことができたそうで、その腕力で鉄砲をかまえて打つことを覚えました。

やがて覚馬は藩主松平容保が京都守護職に命じられた時に京都に行きます。さらに長崎にも行って西洋の最新式の銃のことも学んできます。このころ八重のもとに覚馬から最新式のスペンサー銃が届けられたことがあります。しかし薩摩や長州が西洋との戦いで新式の武器をそろえる必要があることを痛感して軍事改革を始めたのに対し、会津では覚馬が新式の兵器をそろえるよう進言しても重臣たちはなかなか聞き入れませんでした。

そうするうちに戊辰戦争が始まります。
山本家では八重の弟の三郎が京都に向かいました。しかし鳥羽・伏見の戦いで戦死して、遺品の軍服だけが山本家に届きました。京都にいるはずの覚馬の行方は知れません。やがて徳川家は大政奉還するものの、会津は賊軍扱いされ「征伐」の西軍がやってきます。
奥羽越列藩同盟の諸藩も次々と敗れ、会津城下に西軍が迫ってきました。そうして鶴ヶ城を取り巻く「郭内」の武士の家の者たちに籠城を呼びかける鐘が鳴りました。この時八重は弟の軍服をまとい、スペンサー銃を肩に担いで城に入りました。

八重の生家からは城はすぐ近くにあり、ここからお城に向かったのだなと思いました。

主要な藩士は出陣しており、城内の将兵はわずかです。その中で八重はスペンサー銃で敵を撃ち、夜には夜襲に出かけました。
しかし西軍の最新式の大砲による攻撃が激しくなると、鶴ヶ城も持ちこたえることが難しくなり、松平容保は降伏を申し入れました。
鶴ヶ城が落城した夜、八重は三の丸の白壁に簪で歌をきざみました。

明日の夜は何国(いずく)の誰か眺むらん
なれし御城に残す月かげ

会津の藩士たちは猪苗代湖に移されて謹慎することになりました。
その時八重は三郎の軍服を着たまま「山本三郎」と名乗り、藩士たちに交じって猪苗代に向かいました。しかし猪苗代に着くと女だと見破られて立ち去るように命じられました。
山本家では父親が戦死。残ったのは母と八重、そして覚馬の嫁のうら、その娘みね。おそらく四人で肩を寄せ合ってつらい暮らしを耐え忍んだことでしょう。

四年ほどたったころ、覚馬からの便りがありました。京都へ来るようにとのことでした。
覚馬は京都で薩摩藩に捕えられえていたのです。しかもこのころから目が見えなくなっていました。しかし牢の中からこれからの日本の歩むべき道を考え訴えるため、口述筆記で「管見」を著しました。その「管見」が長州出身の槙村正直の目に留まったのです。槙村正直は京都知事となり、覚馬を京都府で役職に就けたのです。
覚馬はそのころ京都にできた「女紅場」という女性の手習い場に入れました。さらにゴルドンという宣教師の所へ英語と聖書を習いに行かせました。

さて、新島襄は幕末に密出国してアメリカに渡り、宣教師となって明治の日本に戻ってきました。そしてキリスト教の学校を作ろうとしてゴルドンを頼ってきました。そこで八重と襄が出会いました。
京都はお寺や神社が多いため、キリスト教の学校を作ることに激しい抵抗に遭いました。しかし知事の槙村や山本覚馬の助力で同志社英学校を作るまでにこぎつけました。そして襄と八重は結婚したのです。結婚する前夜、八重は洗礼を受けました。そして宣教師デビスの司式のもとで結婚式を挙げました。日本で最初のプロテスタントの結婚式となりました。
新島襄は友人への手紙にこう書いています。「八重さんは美人ではありませんが、生き方がハンサムなのです」。
妻が夫の後ろを三歩下がって歩くのが当たり前の時代、八重は夫を「ジョー」と呼び、人力車に二人並んで乗りました。洋装をして自転車に乗ったとも言います。

襄は同志社を大学にしたいという願いを持っていましたが、志半ばにして47歳の若さで病死します。
その後八重は看病婦学校に通い、日本赤十字社に加盟しました。そして日清戦争、日露戦争の時には篤志看護婦として救護活動をしました。
自宅を改装して茶室を作り、茶道にも励みました。
八重は86歳で亡くなりました。

大河ドラマで八重という人に出会えてよかったです。

放送当時、新島旧邸を訪ねた時の日記を張り付けておきます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1914929371&owner_id=1362523

生家跡を見て、鶴ヶ城の正面に戻ることにしました。天気が良すぎて暑くなってきました。本当はお城の東側にもみどころはあるのですが、ここまでで予定以上に時間を取ったので、1日乗り放題バスで次の目的に向かうことにしました。


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