CCTVで「康熙王朝」のドラマが始まってからがんばって見続け、それが終わったら「雍正王朝」が始まったのでがんばって見続け…。「雍正王朝」が終わったら「乾隆王朝」かな、と思っていたら、歴史とは関係のない現代のドラマが始まってしまいました。
ここのところ忙しくて、追い付くのが大変だったのでまあいいか。
一応康熙王朝から雍正王朝に交代した時の日記。
康熙王朝が終わったら雍正王朝が始まった
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963432924&owner_id=1362523
雍正帝は45歳で即位して58歳で亡くなりました。康熙帝と乾隆帝が長生きして治世も長かったのに対して、その狭間で割を食ったような存在です。でも真面目で勤勉だったことは確かで、死因に過労死疑惑があります。ドラマを見ても過労死かストレスか、という感じですね。
興味深いのは康熙帝との差異です。雍正帝が帝位につくまでが長かったため、「康熙王朝」だけでなく「雍正王朝」でもしばらく康熙帝の世が続くわけですが、いずれも康熙帝は帝王の威厳と国や民を思う慈愛を兼ね備え、稀にみる名君たる風格に満ちていました。
それに対して雍正帝はあまり威厳がないように見えます。真面目で勤勉でコツコツ政務をこなしていきますが、兄弟や廷臣たちからはあまり尊敬されず、政策にも異論噴出です。
これは演出と演技で意図的にそのような人物像に描かれたのでしょうか。
しかもそれは実際に雍正帝ってこんな感じだったかも…と思えるものがあります。
それは帝位継承の経過からも言えます。
康熙帝には皇太子がいましたが、2度も廃嫡されます。一度廃嫡した皇太子をもう一度復位させますが、結局もう一度廃嫡することに。その後康熙帝は後継者選びに悩み、なかなか皇太子を定めることができません。そうすると、康熙帝には皇子がたくさんいますが、その皇子たちが後継者争いを始めます。
その中で特に皇位継承の画策もせずひたすら任務に没頭していたのが第四皇子です。勤勉で有能ですが、康熙帝の目からは皇帝にふさわしい人物かどうかについてはいまいち不安があったのかもしれません。
結局康熙帝はいまわの際に第四皇子を次の皇帝に指名します。しかしあまりにも間際過ぎて、周りのわずかな者だけで伝達が行われたため、後々まで疑惑を呼ぶことになります。こっそり康熙帝の命令を書き換えたとか噂になったり。そういったこともあって、康熙帝ほど周囲の尊敬を集めることができず、皇位継承争いに敗れた皇子たちも皇位転覆のクーデタを画策するし、孤軍奮闘状態です。
皇帝になった途端一人称が「朕」になりましたが、しばらくはそぐわない感じでしたねえ。「なりたくてなった訳じゃない」という雰囲気がなんとな〜くにじみ出ているような感じがしました。
あとは皇帝にふさわしい人物になるより、国を安定させることを第一に考え、ひたすら政務に取り組みます。
最後に、雍正帝が亡くなったとき、国庫には2000万両あった、雍正帝が皇位継承した時は700万両しかなかった、という説明が出ました。雍正帝は財政を最も重視したことがわかります。この富を得て、乾隆帝は清の最盛期を迎えることができたんだなーと思いました。
私が思うに、康熙帝は中国史上でも名君中の名君、最高の名君と言ってもいいということに同意しますが、中国史上最も幸福な皇帝は乾隆帝ではなかろうか、と。
気苦労の絶えなかった雍正帝ですが、後継者にはあまり悩まずに済んだと思います。「太子密建」すなわち皇太子を立てず、後継者の名前を書いて封印した箱を扁額の後ろに隠して、崩御の際に開封するということを定めましたが、それは皇位継承の熾烈な争いを見てきたからであり、自分の後継者にはそれほど悩む必要はなかっただろうと思います。弘暦は康熙帝にも気に入られたかしこい子で、問題があるとすれば、長男ではないため他の皇子たちのねたみそねみの対象になる恐れがある、というぐらいでしょうか。ドラマでは最後には弘暦を皇帝代理に指名するし、どう見ても弘暦が後継者になるのは自明のことだったのではないかと思います。
北京の雍和宮は雍正帝の即位前の住居だったそうです。雍和宮は現在はチベット仏教の寺院です。清朝の歴代皇帝はチベット仏教を信仰していました。前に行ったことがありますが、とても大きくて立派な寺院で、巨大な仏像がありました。
雍正帝について、台北の故宮博物院のHPを見つけました。
https://www.npm.gov.tw/exh98/yongzheng/jp0201.html
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