「旅する仏教美術」講座2回目がありました。
(1回目の報告はこちら)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962565052&owner_id=1362523
まず仏像ができるまでの過程。
仏教では、釈迦が「像を作るな」と厳しく教えていたため、長らく仏像を作ることはありませんでした。まず釈迦が亡くなったとき、弟子や周りの人たちは「釈迦ロス」になりました。そしてまず釈迦の骨が八つに分けられました。その骨を埋めたところに仏塔が作られました。さらにそれが細かく分けられていきました。
仏塔としてはサーンチーのストゥーパが有名ですが、本体は半円形の土饅頭で、その周囲に柵が作られ、柵や門に細かい彫刻がびっしり作られます。
しかし釈迦は象徴的な形であらわすのみ。例えば菩提樹。そして仏足跡。仏足跡は「あしあと」ではなくて、釈迦がそこにいるしるしです。足の形だけ見て、そこに釈迦が立っているという想像をするのです。
それがなぜ何百年もたって突然仏像が作られたか。
とりあえず最古の仏像と言えるのが、クシャーン朝のカニシカ王の貨幣で、表には王の姿、裏にはブッダと思われる人物像が刻まれています。
王様なので、「像を作るな」という教えも命令で帳消しにできてしまう?
そこにいたのがギリシア人。アレクサンドロスの征服によってたくさんのギリシア人がこの地に移住してきていました。そして、ギリシア人には「ギリシア神話」があったのです。
パワーポイントで次々と映し出されるギリシアの神々の彫刻。あれも、これも。
そうして力のある王侯貴族が仏の像も作ってくれないかな…。
ということで、できました。
資料や経典に基づいて作ってあります。
ガンダーラ仏の写真。
この流れがテンポがよくておもしろかったです。こういうアプローチだと面白くてわかりやすいですねー。
そして次々に映し出される「イケメン」ギリシア彫刻風の仏像のアップ。
ただ、こういう仏像はあくまでも王侯貴族のもの。
庶民はどうしていたかというと。
ここでサーンチーのストゥーパに戻ります。
ストゥーパは町の公民館のような役割をしていたと。
文字の読めない庶民に仏殿の彫刻で教えを伝えるのはもちろん、いろいろな集まりが行われていたのです。すでにストゥーパはお寺の役割をしていました。
そのストゥーパは日本のお寺の塔になっています。そこで対比された写真は法隆寺の五重塔。
仏像も日本風に変化していきます。
初期の仏像は大陸から来た人が作ったので少々異国風。それがだんだん日本化していって、天平仏、平安仏ときて日本の仏像として完成したのが鎌倉時代。
休憩時の雑談で、参加者から日本では涅槃仏はあまり見ないがどうしてかという疑問がありました。講師の先生はしばし考えて、そのあとの講座の内容に関連付けて推測してくれました。
仏教は大乗仏教と小乗仏教に分かれます。大乗仏教は「みんなで救われましょう」という思想。小乗仏教は「自分が悟りを開く」修行をする思想。大乗仏教では救いを求める人に対応するためもあり、何種類もの仏が生まれていきました。密教になるともうそれこそ「曼荼羅」でたくさんの仏がずらー。
それで、涅槃像というのは、特に小乗仏教において「自分が悟りを得る最終目標」の姿なわけです。タイでは涅槃仏が多いですね。やはり小乗仏教ですから。
(そういえば、この前の展覧会で見たタイ仏は像のパターンが限られていましたが、その中に涅槃仏もはいっていました)。
大乗仏教は「みんなで救われましょう」なので、救ってくれる仏を求めます。また、日本では死を穢れとする思想もあり、涅槃像はあまり好まれなかったのではないかと。
なので、お寺には救いがあります。
仏像を見る時は、いつ作られてどんな様式で…といった知識がないとわからない、ということは全然ありません。心で感じるのが大切です。
私はお寺と言えば、葬式仏教か「仏像のあるところ」ぐらいの認識だったので、「救いを求める」という基本的な部分がちゃんとあるんだということがわかって興味深かったです。
ログインしてコメントを確認・投稿する