四、 大谷文庫
かつて「大谷コレクション」のみが大谷光瑞と旅順博物館を唯一関連付けるものだったが、近年我々はもとの館蔵の図書資料の中で大谷文庫の蔵書の一部分を発見した。
大谷光瑞は1915年に旅順に居を移してから、蔵書のほとんど全部を運んできた。その一部は満鉄を通じて当時の大連満鉄図書館に引き渡され、主に明清の稀覯本や小説が現在の大連図書館に収蔵されている。そのほかのものは当初一部が関東庁博物館図書閲覧室に収蔵されたが、のちに独立した旅順図書館の蔵書となった。その数は約3500冊、多くは洋書の原書であり、現在これらの図書は失われている。
旅順博物館に収蔵された大谷文庫の図書は、1929年に関東庁博物館付属図書館が独立してから博物館は独自の図書室を建てた時のもので、当時新しく登録されて所蔵となったもの中に洋書62冊と「支那書」と総称される中国の部分地区の地図27冊がある。特筆すべきはこの地図にはいずれも「大谷光瑞蔵書」印が押されており、大連図書館の大谷文庫の蔵書印と比定して同じものと認められることだ。
旅順の大谷故居は旅順博物館の2キロの山の中腹にあり、故居のベランダに立てば博物館の屋根や庭を見渡すことができる。資料によると、大谷は旅順に居住していた期間、暇があると小僧を伴って博物館を訪れ、中国の陶磁器を鑑賞・研究し、自ら「支那古陶磁」を著した。この本は現在旅順博物館の日本語資料室に安置されており、参考資料として提供されている。
大谷光瑞はのちに上海や南洋に移り住んだ。1945年8月15日、日本が無条件降伏した時は大連のヤマトホテル(現在の大連賓館)に滞在していた。1947年3月帰国し、1948年10月4日に病死した。
旅順博物館収蔵の「大谷コレクション」はその全体の意義からすると、現在なお正確な数を集計するのはたいへん困難である。それは1世紀もの変遷を経ていること、そして旅順博物館が日本の植民地時代に建てられ、旧ソ連軍に接収され、中国政府に取り戻されたという大きな転変の経歴を経ており、博物館の経営理念も収蔵品の管理方式もそのたびに変化したからである。「大谷コレクション」は館蔵品の分類として中国の考古出土品を中心にして、そのほかの分類、すなわち石刻・外国文物・陶磁器などに分かれている。しかし「大谷コレクション」の主要な部分が年月の転変を経て旅順博物館に安住の地を見出したことは、疑いなく喜ばしいことである。
(了)
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