日本で昭和18年(1939年)に出版された「満鉄附属地経営沿革全史」(上)第十四章に「大谷光瑞の蔵書は最初に満鉄大連図書館に委託されて保管され、大正十四年(1925年)に寄贈された」とある。これは1925年11月よりこれらの蔵書は大谷光瑞のものではなくなって満鉄大連図書館のものとなり、図書館が当初は代理で保存と整理をしていたものが、正式に所有権が移ったことを表している。
委託されたのは1915年9月で、贈与されたのは1925年11月、10年の歳月がある。この期間に何があったのだろうか。もしや人々が推測する通り大谷光瑞は本当に経費に困っていて蔵書を抵当に満鉄に借金をしたのか、そして返済できないまま図書館のものとなったのか。もし本当にそうなら、なぜ図書館で整理登録された蔵書の下欄に「大谷光瑞寄贈」の印章が押されているのか。
さらに不可解なのは、大谷光瑞の経歴を詳しく記した「鏡如上人年譜」の中には、含秀居蔵書に関すること、この蔵書が上海を経由して旅順大谷邸に運ばれたことが全く書かれていない。ひいてはいつ満鉄大連図書館に送られたのか、いつ正式に贈与したのかも、一字も言及がない。百年前に起こったこうした出来事が人々の好奇心や興味をそそり、学者の関心と思索を引き起こしている。今に至るまでこれは読書界で常に提議される問題であり、学術界で決着のついてない未解決の問題である。
とはいえ、贈与なのか譲渡なのか、収蔵された経緯がどうであろうとこれらの蔵書の価値には何の変りもない。満鉄大連図書館はこの蔵書の特殊性にかんがみ、分類して書架に並べることなく専用の書庫を作って収め、これを「大谷文庫」と命名した。1925年に大谷文庫が設立されて以来、世界各地の学者がこの蔵書に重大な関心を払うようになった。学術界の研究が進むにつれ、大谷文庫の国際的な影響は日を追うごとに高まった。大谷文庫の蔵書は現在では学術界では「大谷本」と称されるようになった。
漢学者としての大谷光瑞は大谷文庫とのこうした縁を敷衍したが、宗教家としての大谷光瑞は近代日本の対外拡張の歴史的な時期にあって伽藍の内に安住することをせず、座禅にふけって修養に専心することもなく、複雑で多面的な政治家の顔を以て積極的に中国・朝鮮・東南アジアなどの政治舞台で活躍した。
1940年から41年にかけて大谷は日本で前後三回内閣の参議顧問に就任した。1945年6月、大谷は四面楚歌の内閣をあきらめて大連に戻った。そして中国に骨をうずめることを決意したこと、もし日本が失敗しても自分は中国に留まることを表明した。1945年8月15日、日本が無条件降伏した時も大谷は大連に滞在しており、11月に病を得て満鉄大連病院に入院した。1947年2月28日、大谷は送還船「遠州号」に乗り、大連から日本に戻った。1948年10月5日、大谷光瑞は73歳で大分県の別府で病没した。
歴史上、漢籍の伝播は古代日中文化交流の主流であり、日本の文化を発展させた。日本の歴史では奈良時代・平安時代から江戸時代までそれぞれの時代に漢籍の流入の風潮が高まった時期があった。
しかし日清戦争から第二次世界大戦終結までの五十年間、中国の文献典籍の流出は深刻で、日本に流入した道筋や方法・さらにその意義まで昔とは内容が異なった。しかも流出した漢籍が戻ってきた例は歴史上でもあまりなく、たまたま個別の書籍が個別のルートで戻ってきたことを聞くぐらいだ。
大谷光瑞所蔵の漢籍が日本から中国に戻ってきたことは、どのように見ればいいだろうか。日本の学者で二松学舎の伊藤漱平教授は「大連図書館蔵「大谷本」の来歴とその現状」という一文の中で「これは日本の歴史上まれにみる唯一の大規模な漢籍の里帰りである」と書いている。
我々はこれらの漢籍が曲折の歴史を経て、海を越えてついに伝記物語のように祖国の懐に戻ってきたことは、たとえそこに特殊な歴史的原因があろうと、客観的に見れば真に意義のある里帰りであるといえる。大谷光瑞本人の意思がどうであれ、満鉄大連図書館の初志がどうであれ、これらの蔵書が最終的に中国に落ち着いたこと、我々がこの貴重な書物の保存を担い、大連図書館の特徴のある蔵書となったのは喜ばしいことである。
我々が大連図書館の貴重書の書庫に入る時、目に入るのはきれいに並べられ、積み重ねられた、精魂込めて仕上げられた樟の箱である。大谷文庫の蔵書はこの特製の蔵書箱の中に静かに身を横たえている。これらの一切に対して深い感慨を禁じ得ない。これこそこれらの稀覯本の最良の落ち着き先ではないだろうか。
(了)
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