これらの漢籍が収蔵されると、満鉄大連図書館の蔵書との構造と業務活動に一連の変化がもたらされた。
まず満鉄大連図書館はさらに大量の漢籍、とりわけ地方志などの書籍の収集に力を入れるようになり、次々と人を派遣して中国国内の古籍や稀覯本を探させ、それも特別な経費を計上してその活動を支えた。
次に図書館ではこれらの大谷光瑞の蔵書目録を作成する仕事が重要課題となり、四方に人材を求めた。誰がその任にふさわしいだろうか。
1920年3月、姓を松崎、名を鶴雄、号を柔文(または柔甫)という日本人が満鉄からの嘱託という身分で満鉄大連図書館に入った。松崎鶴雄は熊本県の人で、大阪朝日新聞社に勤めたことがある。1909年には中国遊学をする水野梅暁に同行して長沙に留学し、「二王一葉」と称された大儒者、王闓運・王先謙・葉徳輝の門下に入り、この三人から高い賞賛を得た。松崎が満鉄大連図書館で大谷光瑞の蔵書の整理を任させることになったのは、水野梅暁の推薦があったものと見られる。水野梅暁は大谷光瑞と特別の関係があった。光瑞のお供をして南洋へ遊歴したことがあったからである。
漢学者ということで、松崎は満鉄大連図書館の仕事の名目としては漢籍の採集と満鉄社員の漢学知識の育成であったが、その実際の仕事は大谷光瑞の蔵書の整理であった。松崎の師である葉徳輝は大蔵書家で、目録学に精通し、戯曲小説にも玄人だった。松崎本人は英語にも優れ、また漢学にも精通し、大谷光瑞の蔵書の整理ならお手のものという人材である。
では、神戸の二楽荘から上海を経て紆余曲折の果てに運ばれてきたこれらの漢籍はつまるところいかなる宝物なのか、大谷光瑞本人と満鉄大連図書館から重要視され特別な扱いを受けたのはなぜか。我々はまずこれらの蔵書に何が含まれているのか見てみよう。
蔵書は全部合わせて漢籍五千冊余り、洋書約三百冊。さらに日本で出版された本が百七十種余り、日本語と漢文の写本二十五種。目録学の観点から見ると、これらはほぼ中国の古籍分類のうちの経・史・子・集・叢に分類される。
百八十種余りの明清小説のうち数十種は国内外でも唯一のものであり、その内訳をみると稀覯本に事欠かない。例えば明の木版の「警世陰陽夢」、清初の木版「後水滸伝」、日本の写本「珍珠舶」から「連城壁」など稀覯本として名が知れているものもある。しかも「醒名花」は現存する唯一の完全な版本である。また四百種近くの中国各地方志のうちにも稀覯本、善本に事欠かず、例えば康熙十二年の木版「重修莱蕪県志」、康熙十三年の「沂州志」、雍正八年の木版「海陽県志」、乾隆二年出版「泰安府志」などである。清の乾隆朝以前の木版本は二百種余りにもなる。
また洋書三百冊余りは多くが明末清初のころに中国に布教に来たヨーロッパの伝道師の著作で、内容は中国の明清の時期の政治・経済・文化から市民生活に及ぶ。
一言で言い表すならば、大谷光瑞の蔵書は体系が完備し、独自の特色があり、資料価値と版本の価値はいずれもみくびってはいけない。この事情にかんがみて、この蔵書はいかに紆余曲折の運命をたどったか、特別な待遇を受けたかがわかる。
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