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2019年09月07日19:07

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猪木とビンス(519)最終章

74年は猪木が馬場にマスコミを通して対戦要求を繰り返し、「逃げる馬場、追う猪木」の図式のイメージが定着。猪木にとってはアドバンテージになりました。

75年の後半に入ると馬場がこれまでの沈黙を破り反撃の狼煙を上げていきました。5月まで新日本プロレスのリングに上がっていた大木金太郎を引き抜きに成功。

9月21日、大韓プロレス協会の権五台会長の招きで馬場は韓国マット視察の為にソウルを訪れましたが、22日夜の食事会の席上、大木が突如として会場に姿を現し馬場に挑戦を表明。帰国後、馬場は大木の挑戦を受諾し、10月30日、蔵前国技館で馬場vs大木戦が決定。

9月29日、馬場は記者会見を行い、12月に「国内外を問わず、広く『門戸を開放』し世界の強豪を集めた『オープン選手権』を開催する」と発表。マスコミの「猪木が参加を表明してきたら、参加させるのか」という質問には「そういうことです」と即答しています。

このオープン選手権に、国際プロレスはラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の主力3選手を参加させると発表。記者会見には吉原と3選手が出席し、優勝者にはこの年、日本プロレスから新日本プロレスのワールド・リーグ戦に寄贈(実際は買取)される予定であった日本プロレスのワールド・リーグ優勝杯が贈られることになりました。

記者会見に出席したR木村、草津、M井上の3選手は全日本プロレスの馬場、鶴田、ザ・デストロイヤーと共にワールド・リーグ優勝杯を挟んで記念撮影に臨んでいます。

猪木は「馬場のやり方は汚い。私がやりたいのはあくまで馬場戦であり、向こうの興行に出て行って向こうを儲けさせる気はない」と不参加表明。

馬場の反撃はこれに留まらず、10月13日、南青山の新日本プロレス事務所で記者会見を行った猪木は年度最終戦の12月11日、蔵前国技館で猪木と新日本プロレス初参戦となるビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合を行うと発表。国際プロレスのレギュラー外国人であったロビンソンと猪木は初対決でありまさにファン待望の「夢の対決」でした。

その1週間後の10月20日、馬場は同じ12月11日、日本武道館で「力道山13回忌追善興行」の開催を発表。力道山家(百田家)が主催、全日本プロレス、国際プロレス、日本プロレス(団体は崩壊しており、名前だけ)が協力すると言う形ですが、全日本プロレスのオープン選手権のシリーズ中の1日を使って行うものであり、メンバーもオープン選手権参加メンバーであり、事実上は全日本プロレスと国際プロレスの合同興行でした。

ロビンソン戦を先に発表している猪木は当然参加出来る訳もなく、百田敬子未亡人は「猪木さんに力道山門下を名乗って欲しくない」と非難し、また力道山家後見人の山本正男は「恩知らずのバカ者」と猪木を罵倒しています。

全ては「生意気な猪木を黙らせる為」に馬場が仕組んだ巧妙な仕掛けで、これ以降、猪木は馬場、NWAに対する興味を急速に失っていきました。

10月30日、蔵前国技館で馬場は大木とノンタイトル時間無制限1本勝負で対戦、6分49秒、ランニング・ネックブリーカードロップからの体固めで降し、これより1年前の74年10月10日、同所で猪木が大木を破った13分13秒の約半分の時間で大木を仕留めて見せ、三段論法的に「馬場は猪木より強いのでは?」とファンに認識付けさせました。

国際プロレスの主力3選手R木村、草津、M井上の3人はこの日、リングに登場しファンに挨拶、リング上からオープン選手権への参戦を表明しています。

前74年、TBSの放送打ち切り、ストロング小林の離脱、大剛鉄之介の事故で団体存続のピンチに見舞われ窮地に陥った国際プロレスは所属選手を引き連れて地方巡業に参戦してくれた馬場の恩義に報いる為に全日本プロレスに協力していきますが、弱体化していた国際プロレスは主導権を馬場に完全に握られてしまうことになっていきます。


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