■「これでいいのだ」
●赤塚不二夫『笑わずに生きるなんて』を読んだのは、もう随分、前の
ことである。ここに引っ越す前、おそらく明石に住んでいたころのことで、
職場からの帰り、神戸中央図書館に立ち寄り、借りて読んだのだと思う。
そのころ、私は行き詰っていた。
孤立無援の中、労働組合運動をやっていた。職場では、私と接することが
禁じられ、私は一人部屋で仕事をした。
国鉄がストライキを最後にやった1974年からしばらくたって
もう、労働運動も転換期を迎えていた。
私は「本」を手にしても、みんな空々しく思えた。
「本」を読む気にもなれない。
図書館で、何か、今の自分にも読める「本」はないかと探した。
で、今まで読んだことのないジャンルや人の「本」を読んだ。
名もない人の自伝みたいな「本」を読んだ。高木護や山窩(さんか)の
話なども読んだ。
●『笑わずに生きるなんて』は、そんなとき読んだ「本」だったと思う。
著者の赤塚不二夫はマンガ「おそ松くん」で、私も知っていたが
この「本」は、人気ギャグマンガの作者の顔よりも、「生きるのは、そんなに
面白くも、楽しくもないかもしれないけれど、でも、笑わずに生きるなんて
つまらないではないか」といっている、気弱で、それゆえに奇行に
走るような、「赤塚藤雄」という大人しい子供の表情をした人物が
浮かんでくるような「本」であった。
この時期に読んだほとんどの「本」がそうであるように、その「本」の内容を
ほぼ覚えていない。
しかし、それらの「本」が私を慰め、「本」が読めない状態の私を救ってくれた。
良書であったことは間違いない。
人には、何が良書になるか、それは
その人の置かれた状態によって、異なる。
世に「良書」といわれるような「本」ほど、つまらない「本」はない、
と、そう思われるような状態に人は陥ることがある。
●「散策その後」と題して書きはじめていたが、NHKのTV「プレミアム10」で
赤塚不二夫の特集をやっていて、それを見た。
・
http://www3.nhk.or.jp/omoban/main0530.html
「これでいいのだ」は、天才バカボンのパパのギャグ・常套句であるが、
けっして「これでいい」はずはない状況において、この句が発せられる。
TVでは心理学者や言語学者みたいな人が出てきて、
「これでいい」というセリフと、「これでいい
のだ」という言葉を比較して、
「のだ」はどういう効果をもたらしているか、を考察していた。
本来は「確定・断定」の語感を与えるはずの「のだ」が、ここでは
逆に、「これでいい」と言い切るよりも、押しつけがましくなく
やんわりと自分の価値観を提示している、とそんな風な解説をしていた。
●たしかに、マンガ「天才バカボン」では、押しつけがましくなく感じる。
しかし、それは天才バカボンのパパが言うからであって、他の人が
言えば、「のだ」には、やはり、念押し・断定の語気が混ざってくる。
なぜ、バカボンのパパが言うと「押しつけがましく」ならないか。
それは、バカボンのパパの口を借りて、赤塚不二夫が
「これでいいはずはない」ことを百も承知で、ナンセンスなギャグで
「これでいいのだ」という、その「諦念」あるいは「悟り」を示しているからのように
私は思う。
「悟り」とは大袈裟な、と思われるかもしれないが、
バカボンのパパは、逡巡なく、本気で、「これでいいのだ」と言い切っている「バカ」
だからこそ、私たちは、ギャグとして、安心して、笑うことができるのでは
なかろうか、と、私はそう思うのである。
赤塚不二夫『笑わずに生きるなんて』
海竜社、1978年
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