■県立大学
・1964年(昭和39年)4月、私は入学した。それは、経済・
経営・管理科学の三学科からなる県立の単科大学だった。
こじんまりとした大学で、学年約300人の学生数で、全学あわせても
1200名くらいの「小さな大学」だった。1年生(関西では
「回生」と呼んだ)のときから、一般教養のゼミが必須であり、
私は、1年のとき「哲学」、2年のとき「日本史」を選んだ。
ゼミが高校のときの「クラス」機能を担っており、学期末や
学年の終わりには、どのゼミも担当教官とゼミ生で、研究を兼ね、
ゼミ旅行を企画した。哲学ゼミのときは京都・東寺、日本史ゼミの
ときは姫路城に行った。
・新入生には「オリエンテーション」が開かれた。学科の特徴や
必須・選択の科目の説明、必要単位、カリキュラム、時間割などなど。
「寮」でも、先輩が教えてくれた。「鬼の鬼塚、鬼より怖い。
○○○の境は、もっと怖い」と、試験でよく落とす教官名を並べた
ざれ歌があった。また、第二語学はほとんどものにならないから
単位をとるだけなら、ドイツ語・フランス語はやめて「中国語」が
いいとか、就職に有利な「有名・専門ゼミ」に入ろうと思うなら、
1年のときから一部専門学科の○○とか、○○を履修しておけとか、
いろいろ教えてくれた。
1学年、たったの300名だから、学生食堂や選択科目・
第二語学・体育・大教室の必須科目・経済原論などで、
同学年ならどこかで顔をあわせた。名前は知らなくても
顔は覚えた。数だけでなく、総じて、こじんまりとした「学生群」で
あった。
・「オリエンテーション」で、学生部の少壮のY助教授が
「本校は県立大学である。しかし、県内・県外で学費等で
区別はない。諸君には等しく県民の税金が注がれている。
そのことを忘れないでほしい」と述べたことを覚えている。
・「安田講堂 1968-1969」を書いた島泰三さんは、その本の中で
「学生たちは、思春期後期から青春期にかけてのもっとも
重要な時期を、誰も位置づけができず、重要だとも思わない
ような<教養課程>に2年間も放り込まれて、どうでもいい
教育をされていた」
「この<教養課程>はまったくの無駄、まったくゴミのようなもの
だった」と書いているが、
1年から一部専門が始まり、しかも学生数の少ない私たちの
学校と教養課程2年間のマスプロ教育の東大では、「一般教養」の
科目の意義は、かなり事情が違っていたようだ。
・島さんは、「日本の教育は根底から間違っている」と言い、
「人間性の尊厳」「人間性の涵養」の必要性にも言及している。
・私は大学闘争がはじまつてから、教授たちの「専門バカ」を
見た。「専門バカになるな」は私にとって、その頃の
教訓としていまも残っているものである。
・したがって、大学では「専門」だけをという論には、私は
違和感をもつ。問題は、「教養」「専門」の区別ではなく、
「学問」と「人間涵養」をつなぐ「教育プロセス」が求められて
いるということではないか。
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