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2005年12月12日21:38

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●そのとき、私は・・・( 5)/■オリエンテーション

■県立大学

 ・1964年(昭和39年)4月、私は入学した。それは、経済・
  経営・管理科学の三学科からなる県立の単科大学だった。

  こじんまりとした大学で、学年約300人の学生数で、全学あわせても
  1200名くらいの「小さな大学」だった。1年生(関西では
  「回生」と呼んだ)のときから、一般教養のゼミが必須であり、
  私は、1年のとき「哲学」、2年のとき「日本史」を選んだ。

  ゼミが高校のときの「クラス」機能を担っており、学期末や
  学年の終わりには、どのゼミも担当教官とゼミ生で、研究を兼ね、
  ゼミ旅行を企画した。哲学ゼミのときは京都・東寺、日本史ゼミの
  ときは姫路城に行った。


 ・新入生には「オリエンテーション」が開かれた。学科の特徴や
  必須・選択の科目の説明、必要単位、カリキュラム、時間割などなど。

  「寮」でも、先輩が教えてくれた。「鬼の鬼塚、鬼より怖い。
  ○○○の境は、もっと怖い」と、試験でよく落とす教官名を並べた
  ざれ歌があった。また、第二語学はほとんどものにならないから
  単位をとるだけなら、ドイツ語・フランス語はやめて「中国語」が
  いいとか、就職に有利な「有名・専門ゼミ」に入ろうと思うなら、
  1年のときから一部専門学科の○○とか、○○を履修しておけとか、
  いろいろ教えてくれた。


  1学年、たったの300名だから、学生食堂や選択科目・
  第二語学・体育・大教室の必須科目・経済原論などで、 
  同学年ならどこかで顔をあわせた。名前は知らなくても 
  顔は覚えた。数だけでなく、総じて、こじんまりとした「学生群」で
  あった。

 ・「オリエンテーション」で、学生部の少壮のY助教授が
  「本校は県立大学である。しかし、県内・県外で学費等で
  区別はない。諸君には等しく県民の税金が注がれている。
  そのことを忘れないでほしい」と述べたことを覚えている。


 ・「安田講堂 1968-1969」を書いた島泰三さんは、その本の中で

  「学生たちは、思春期後期から青春期にかけてのもっとも
   重要な時期を、誰も位置づけができず、重要だとも思わない
   ような<教養課程>に2年間も放り込まれて、どうでもいい
   教育をされていた」

  「この<教養課程>はまったくの無駄、まったくゴミのようなもの
   だった」と書いているが、

  1年から一部専門が始まり、しかも学生数の少ない私たちの
  学校と教養課程2年間のマスプロ教育の東大では、「一般教養」の
  科目の意義は、かなり事情が違っていたようだ。


 ・島さんは、「日本の教育は根底から間違っている」と言い、
  「人間性の尊厳」「人間性の涵養」の必要性にも言及している。


 ・私は大学闘争がはじまつてから、教授たちの「専門バカ」を
  見た。「専門バカになるな」は私にとって、その頃の
  教訓としていまも残っているものである。

 ・したがって、大学では「専門」だけをという論には、私は
  違和感をもつ。問題は、「教養」「専門」の区別ではなく、
  「学問」と「人間涵養」をつなぐ「教育プロセス」が求められて
  いるということではないか。


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