■「悪いことをしないためには、
よいことをしなければならない」
この「順不同」の初回で書き留めたメモのうち、
・小人閑居して不善をなす
について書く。
「悪いことをしないためには、
よいことをしなければならない」
と書いたのは、日高六郎である。氏の「教育論集」の
中に収められいるのかも知れないが、出典は知らない。
福地幸造著「部落解放教育の思想」で、私はこの日高の
発言を知った。同書の「日本のこと・部落のこと」のところで
福地幸造は、教室の中で教師が<どうやって日本の教育を
守っていくのか>という文脈で日高の発言を引用している。
■日高六郎の発言
以下は、同書から日高六郎の発言を引用したものである。
「<二十坪の教室の中では守れない>という発想で、
どうやって日本の教育を守るのか」
「抵抗としての教育という発想だけでは、いわゆる
教育反動にたいして、教育の最低線さえ『守る』ことが
できない。創造としての教育があって、はじめて、ほんとうの
意味で、教育反動と対決できるのではないか」
「教育のばあいは、この一線だけは守りましょうという発想では、
その一線さえ、守ることができない」
「教師はこと教育については、原理としても主催者だし、
現実としても実権者だということ」
「教師は毎日教育実践そのものを<実施>している。その意味で
教師は、二十坪の中では、日々政権の座についている」
「もし、文部省方式にたいし、街頭あるいは地域だけで反対し、
二十坪の教室の中では、じつは文部省決定どおり実践している
とすれば、それはほんとうの意味での<反対>あるいは<抵抗>とは
なり得ないことは自明だろう」
「日々実践の場に立たされる教師としては、悪いことをしない、
というだけでは、どうしてもすまない。悪いことをしないためには、
よいことをしなければならない。明日の空白の時間を、
教室はぜひとも埋めなければならない」
■「教育を守ろう」とした時代
「悪いことをしないためには、
よいことをしなければならない」
という発言は、上に書いたような文脈で述べられたものだ。
「反動教育」などという言葉は、現在「死語」となってしまったが、
まだ、教師が「教育を守ろう」としていたとき、日高の発言はある。
この本は1970年3月の発刊で、あとがきは69年11月である。
「日本のこと・部落のこと」が書かれたのは、おそらくそれ以前の
ことであろう。
いまから見ると、古色蒼然とした「民主」「反動」などの
ことばがある時代背景での発言で、教育の場での発言である。
しかし、私はこの言葉に強い衝撃を受けた。そして、いまも
このことばのことを考えている。
私は、これを教育論のこととしてではなく、一般倫理として
聞いた。
■小人閑居して不善をなす
「悪いことをしないためには、
よいことをしなければならない」
もし、「よいことをしなければ」、たとえそれが
「悪いことではなくとも」、何かで私たちは、その空虚を
埋める。「悪いことをしない」ことは、空虚を埋めたことには
ならない。空虚は、必ず、何かで埋める必要があるからだ。
「守る」ということは、「悪いことをしない」ということではない。
空虚を占拠されるまえに、「よいこと」で埋めねばならない。
私は、このことばでそう教えられた。
「護憲」というのは反動から憲法を守ることではない。
「憲法」を守るためには、空虚を「憲法」で埋めるしかない。
「守る」という立場では守れない。守るためには「よいことをする」
しかない。
■次号(順不同9)を読む
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