12/8(土)、品川のホテルに荷物を預け、上野へ出てまず昼食。
都美とトーハクとどちらを先にするか考えながら、公園のイチョウの落ち葉を踏みしめる。首に風が冷たくて、マフラーを巻き直す。
ムンクの方がデュシャンより混んでいるのは、まあ当然だろう。そして、トーハクは土曜日21:00迄やっているという事を考え合わせると、まず都美に行く事で落ち着く。
「ムンク展〜共鳴する魂の叫び」
・会期 ’18.10/27〜’19.1/20
館内のムンク展入口では入場制限をしているが、大した列ではない。約10分並び、中に入った。(館を出た15:00頃には列は大分長くなっていた。)
来る前に、家にあったムンク展の図録に目を通した。今はない神奈川県立近代美術館鎌倉で1970年に開催された時のものだ。
大学の文学仲間と一緒に行ったのだったと思う。その内1人は既に亡くなったが、他はついこの前の栃木旅行に同行したメンバーである。
概要を比較すると、1970年展は油彩39点と版画その他114点、合計153点。
今展は油彩約60点、版画その他約40点、合計約100点である。
目玉の《叫び》(*)は両者共に展示されている。ただ、ものは違う。
《叫び》は、パステルや版画も含めると、現在確認されているものが5点あるとの事だ。
1970年展で来ていたのは、1893年制作のテンペラ･クレヨンでオスロ国立美術館所蔵、今展は1910年(但し”？”が付けられている)制作の油彩で、オスロ市立ムンク美術館所蔵である。
前者がムンク初の《叫び》で、後者はムンク47歳の作、これが最後の《叫び》になった。
前者には点のような眼玉があるが、後者は白眼だけである。サイズは91×73.5cmと83.5×66cm、今展展示の方がひと回り小さい。
「日本初来日」という告知コピーはこのバージョンについて限定される。
他に、ムンクの代表作のひとつである《思春期》(1893)と《マドンナ》(1894-95)の油彩が1970年には来ていた。
今展の《マドンナ》は1895/1902年のリトグラフ。《思春期》は来ていない。
代わりという訳ではなかろうが、自画像が多数並んでいて、大作《地獄の自画像》(1903)その他を観る事ができる。
ムンクは同じ絵を幾度も繰り返し描いた。売れて手許になくなると淋しくなるのか、また描いて自宅に置いた。ムンクは自作品を「私の子供達」と呼んでいた。
同じタイトルの作品を、油彩,版画いろんな手法で試みた。
また、連作という考え方を彼は持っていた。
自身〈生命のフリーズ〉と呼んだ作品群がある。1892〜1903年の間に、オスロやベルリンで、何度かこのシリーズでまとめた展示をしている。
《接吻》《男と女》《不安》《吸血鬼》《叫び》《マドンナ》がそれに含まれていた。
こうして、彼は81年間の生涯に2万点以上を制作したと言う。
1点1点に時間をかけ、1つに何年も集中して完成させるタイプではない。大概筆は早く、乱暴にさえ見える。
が、その中に様々な心象や象徴を埋め込んだ。
エドヴァルド・ムンクは1863年にノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)に生れ、1944年同エーケリーで80歳で没した。
多くの作品を世紀末の時代(1890年代〜1910年代)に描き、第2次世界大戦終戦の前に死んだ。
ノルウェーは1940年にナチス・ドイツの侵攻を受け、占領されるに至った。
大戦が始まる前、1930年代、ナチスが政権を握ると、意に沿わない作家や前衛芸術作家の作品を「退廃芸術」として排除を始めた。
1937年になると、ドイツ国内にあった82点のムンク作品は美術館から一斉に没収された。この時ムンクは既に73歳である。
その3年後ノルウェーはドイツに占領され、ムンクはアトリエに籠って最晩年を過ごす事になる。
命の危険に晒され、思うように絵を公開できないムンクの《自画像、時計とベッドの間》(1940-43)が、今展の最後に展示されている。
針のない柱時計ときれいに整ったベッドの間の狭い空間に、ムンク自身が精彩のない無表情でぼーっと立ち尽くしている。壁には、「私の子供達」と呼んだ自作品がびっしり掛かっている。
写真家の藤原新也は12/2放送のNHK-Eテレ[日曜美術館]で、この空間を「収監された独房」と呼んでいた。また、部屋の奥で半開きになっている扉の奥の闇は死の世界である。時計の針は今と未来をつなぐのであって、過去を指す針はない。派手な純色模様のベッドはきれいにメイキングされていて、もはやこのベッドに横たわるのは死んだ自分以外にはない。ムンクはこうしたネガティヴの極致の如き状況をも芸術に昇華した、と。
こんな状況が晴れる事なく、ムンクは1944年1/23、風邪をこじらせて死んだ。
展覧会の構成を示しておく。
1.「ムンクとは誰か」
・・・若い頃からの多数の自画像や写真。
2.「家族〜死と喪失」
・・・5歳の時結核で死んだ母を後年になって描いた《ラウラ･ムンク》(1883)、14歳の時同じ病で死んだ姉を描いた《病める子》の版画バージョン他。
3.「夏の夜〜孤独と憂鬱」
・・・ノルウェーの自然の中の人々とその心象。
4.「魂の叫び〜不安と絶望」
・・・《絶望》(1894),《不安》(1896/木版) ,《叫び》(1910？)等。
5.「接吻、吸血鬼、マドンナ」
・・・繰り返し描かれ、遂には抽象画に近寄った感のある《接吻》の各バージョン他。
6.「男と女〜愛、嫉妬、別れ」
・・・発砲事件を起こすに至ったトゥラ･ラーセンとの関係を歴史画《マラーの死》(1907)に擬した。その他愛憎混じる作品。
7.「肖像画」
・・・1908年、ムンクは神経症とアルコール依存症治療のために8ヶ月入院した、その病院長の等身大肖像画。没後にニーチェの妹に依頼されて描いた《フリードリヒ･ニーチェ》(1906)他。
8.「躍動する風景」
・・・有名な《疾駆する馬》(1910-12)他。
9.「画家の晩年」
・・・《星月夜》(1922-24)はこの中では早いが、多くは1930〜40年代の作品。自画像3点含む。
ムンクは一生を独身で過ごした。かと言って禁欲的な生活を送った訳ではない。
様々な女性との深い関係、それが彼の作品にどう表れているか、「愛と死」、興味深いテーマだが、またいつか書く事にする。
[芸術新潮]’18年11月号に詳しいので、お読みになる事をお奨めしたい。
(*)
《叫び》では個人的に勘違いしていた事がある。
橋の中程で叫んでいるのは主人公(画家自身)だと思っていたが、そうではなかった。叫び声をあげているのは自然である。
作家の1892年1/22の日記にこうある(以下[芸術新潮]11月号から引用)、
・・・〈2人の友人と道を歩いていた。太陽が沈み、ものうい気分におそわれた。突然空が血のように赤くなった〉。ムンクは立ちどまって手すりにもたれ、友人たちはさっさと歩いていく。画家は恐怖にすくみあがり、〈そして聞いた、大きな、はてしない叫びが自然をつらぬいてゆくのを〉。・・・
同誌では前橋重二が、これを気象学として解き明かそうとする動きを紹介している。
「真珠母雲(しんじゅぼぐも)」と呼ばれる珍しい雲が北欧では稀に見られるらしい。
2014年12/22にもこれに酷似した空模様が夕刻のオスロに現れ、膨大な数の投稿がネットや新聞を賑わしたとの事。したがって、この雲は北欧でも珍しい現象のようだ。
ノルウェーの気象コンサルタント S･M･フィッケは、19世紀末のこの雲の観察記録を集め、ムンクがこれを見た可能性を2017年5月に論文として発表した。
しかし、そんな雲だとしても、絵の主人公以外は意に介さず橋を歩いていく。
同じ物事を見ても、それをどう捉えるかは個人によりけりである。
ムンクはそれに恐怖を感じ、思わず両手で耳を覆ったのである。
世紀末の時代以降、産業革命の急速な進展のため、北欧の森林は次々と伐採されていった。産業革命の及ぼす影響に大きな懸念を持っていた人達もいたに違いない。自然の苦痛の叫びとして、ムンクはこれを感じ取った可能性もある。
これも前掲の藤原新也の慧眼である。
第8章に展示された《黄色い丸太》(1912)にその象徴を見る。
《叫び》の特殊な空の模様は、《絶望》(1894)、《不安》(1894)、《フリードリヒ･ニーチェ》(1906)の背景にも描き込まれている。(今展に来ている《不安》は1896年作の木版画。)
つまり、「不安」や「絶望」という心象があの雲に託されていると見ていいのだろう。
ニーチェは『ツァラトストラはかく語りき』(1885)で「神は死んだ」とし、西洋文明世界の終焉を説いている。しかし「超人」は現れず、ヨーロッパを蹂躙したのはヒトラーである。
[参考資料]
・月刊[芸術新潮]’18年11月号「特集ムンク」 ニキータ･マティアス,早川瑠里子他著
・「エドワルド･ムンク展」図録 ラグナ･スタング,土方定一,アルネ･エッグム他著 1970年神奈川県立近代美術館･東京新聞発行
・ [日曜美術館]『ムンク 自我の叫び』ディレクター 坂本康子、NHK-Eテレ’18年12/2放送
・ [ぶらぶら美術･博物館]『ムンク展 不安･絶望を描いた奇才の素顔』ディレクター 中城よし子、BS-日テレ’18年12/11放送
・『夜の画家たち』坂崎乙郎著、講談社現代新書1978年発行
・『世紀末と楽園幻想』池内紀著、白水Uブックス1992年発行
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