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2018年07月10日07:46

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超短編小説『記憶漂流記』

『記憶漂流記』

 陸地や船を水平線に探しながら泳ぐのだが、波に邪魔されて案外見えない。快晴の空に照らされた海の真ん中で一人、頭だけを出して漂っていると、これから起こり得る様々な出来事を思い起こして絶望の底に引きずり込まれる。
 サメの歯は折れても次から次に生え替わると、小学生の頃に恐ろしい映像を見せられて知った。その映像が今、恐怖に侵された私の意識に加工されてダイナミックに再生される。白い三角形の行列は、黒い喉の奥から続き、順番に立ち上がりながら、私をシュレッダーにかけようとこちらに迫り来て、ついには無数に光る歯のトンネルで包んだ。絞り寄る歯の壁に、私の目玉は真っ白になり、赤く弾け、そして黒くなる。
「ああーっ!」
 思わず叫ぶと、視界は真っ青で、力を抜くと、水の膜が被さり、口から力なく漏れた気泡が遠ざかっていく。右手で空を掴み、左手で空を掴み、幾度か繰り返して私は息を止めた。
「なぜ私はここに居る?」
 再び立ち泳ぎを始めて海面から頭を出すと、先ほどと変わらず波間に水平線が見え隠れしている。海に落ちて記憶喪失にでもなったのか、着ているTシャツには覚えがあるが、漂流するまでの経緯に思い当たらない。
「あれ?」
 しかも、現在の自分が何者であるのかさえ思い出せないことに気づいた。
「俺は誰でもない。」
 誰でもなければ、たとえ私がここで死んだところで、誰も悲しまない筈だが、それは〈私から見た私〉が誰でもないだけで、私は〈誰かの誰かさん〉なのかもしれないのである。もし、私が誰かさんだとすると、きっと今頃、誰かは、私が居なくなったことを悲しんでいることだろう。その誰かはどんな人だったろうか。匂いが蘇って来そうなものだが、その記憶も失われたか、何も思い出せない。きっとふっくらとして滑らかな頬をしている筈だ。そして、出がけに私の頬にすり寄せる。
「早く帰って来てね、今日は鰻の蒲焼よ!」
 そんな言葉をくれたことだろう。しかしもう、その優しい声を聞くこともない。私はこのままサメに喰われるか、そうでなくとも水の中で干からびて死に、どの道、魚の餌になり、糞となって海底に沈んでいく。
 その海の底とはどんな所だろうと水に顔をつけて下を覗くが、深みはくすんでいてよく見えず、魚影も無い。顔を上げ、空を見ればやはり雲一つ無く、ただ頭上に丸い光源があるだけ。
「ひょっとして、俺はもう死んでいるのか?」
 海と空に挟まれた、私という意識だけがここに存在し、それが永遠に続くだけだとしたら、いずれ、あの恐ろしいサメにさえ愛おしさを感じることになるのかもしれない。
「まてよ?そもそも私は存在するのか?」
 愕然として、私は水に浸かった腕を上げ、掌を見る。
「足は?」
 潜り込んで足を引き寄せて足裏を見る。何も変わった所は無いが、ある筈もない。例えば私は流木で、あるいは死んでいて、残った意識が夢を見ているのだから。
 ずっとこのままなら、宇宙の夢でも見てみるか。
 
 
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