83年10月20日、大阪府立体育会館大会(観衆5000人発表、テレビ収録)ではメインイベントで鶴田、天龍組の鶴龍コンビとスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組の超獣コンビが激突。
これまでの一連な流れから、天龍が超獣コンビのどちらかにフォールされて終わり、と思いきや、天龍が奮闘。
鶴田と天龍がダブルの延髄斬りをハンセンに見舞い、勢いでハンセンが場外に転落してから両軍入り乱れての乱闘となり、14分56秒、両チームリングアウトの引き分け。
鶴龍コンビにとっては値千金のドローでした。
このタイミングで大阪でこのカードを組んだ裏にはそれなりの意味合いがありました。
一つは、77年の世界オープン・タッグ選手権から換算して6年、全日本プロレスは暮れの看板シリーズである世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦を後楽園ホールで毎年開催して来ましたが、この年は初めて大阪府立体育会館で開幕戦を開催(11月25日)することが決定。
後楽園ホールの3.5倍の収容人数を持つ西の聖地であり、かつ新日本プロレスの興行人気の高い府立に開幕戦で打って出るのは1つのチャレンジでもありました。
年に一度の最強タッグ、開幕戦を満員にしなければならない使命が馬場にはあったのです。ただし、この日の観客は5000人と満員マークはつかず。
1か月前の9月21日、同所で新日本プロレスが猪木vsラッシャー木村、藤波vs長州のいささか使い古されたカードで9000人超満員発表の観客を動員しており、ハンセン、ブロディの両巨頭を揃えても満員に出来なかった全日本は課題を残しました。
前にも書きましたがやはり「府立」では豪華メンバーやタイトルマッチよりも遺恨試合や喧嘩マッチが好まれる傾向があります。
もう1つは最強タッグのチーム編成。8月31日、蔵前国技館でテリー・ファンクが引退したことにより、こちらも77年の世界オープン・タッグ選手権から連続エントリーしていたザ・ファンクスが解体。
ドリー・ファンク・ジュニアは馬場とタッグを組んで参加。松根光雄社長、日本テレビ側がプッシュしている鶴田、天龍組の鶴龍コンビがエントリー。
よってファンクスと同じく6年連続エントリーの馬場、鶴田組の師弟コンビも解体。
そうなると鶴龍コンビの番付を上げて、超獣コンビ、馬場、ドリー組と並ぶビッグ3にする必要が出て来ます。
よって、この日の試合は最強タッグの前哨戦となり、鶴龍コンビ、特に天龍が超獣コンビを相手に互角にやれるかを見られる天龍にとっては厳しい査定試合のようでした。
しかし、負けなかったことで合格のお墨付きが松根社長から出たかと思います。
馬場はこの日セミファイナルでキラー・ブルックスと対戦、カウンターの16文キックで圧勝しました。
10月22日、土曜日午前9時からの60分番組「土曜ロータリー」の中で月1回放送となる、若手の試合を中心とした「全日本プロレス・フレッシュファイト」の放送が開始されました。
やはりこれも日本テレビから出向の松根社長の尽力で10月の番組改編期に合わせて時間枠を取りました。
これで日本テレビは毎週土曜日午後5時30分からの全日本プロレス中継、不定期の90分特番である土曜日午後7時30分からの土曜トップスペシャルと合わせて地上波で3本のプロレス番組を持つことになりました。これは日本プロレス時代にもなかったことで、ライバル局であるテレビ朝日を凌駕しました。
ハードは揃いました。後はソフトであるリング上の試合の活性化と集客力のアップだけです。松根社長はプロレス中継の老舗である日本テレビのプライドを持ち、昭和のテレビマンらしい矜持でテレビ朝日と新日本プロレスに負けじと攻めていきました。
フレッシュファイトは記録をつけていなかったのでどんなカードが初回に放送されたか掴んでいませんがおそらく9月30日の後楽園ホール大会から前座試合が放送されたかと思います。
百田兄弟やフィリックス・ロペスが出てきて全然フレッシュではなかったような気がします。
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