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2014年02月17日04:27

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■「日記を読む愉しみ」 (4)

●2014年02月17日 (月) 晴れ?

 ▼ 『平生釟三郎日記』第6巻 附録 から

   日記を読む愉しみ
                 片野真佐子

   二

  さて、 すっかり京都のひとになった飯沼先生は、 東京の人間
  は言葉が足りないというのが口癖だった。
  これと並行して近代皇后の勉強をしていた私は、明治・大正・
  昭和の歴史の証言ともいうべき政治家や女官の日記に加えて、
  さらに多くの近代文書に接し、それからその魔力にやみつきに
  なり、たくさんの日記を見、 たくさんの字体に接するように
  なった。

  今から思えば、そのころが転機だったのだ。
  先生の原稿と私の原稿。手書き原稿とワープロ文書。その束の
  分量の差をときどきなつかしく思いだす。

  文書解読の世界もIT化された。私は、二〇〇七年版の東京堂
  出版『くずし字用例解読辞典』のCD=ROMを愛用している。
  この発売とほぼときを同じくして、これからは、ITの進歩で、
  いかなる文書の解読も可能であるという記事が日経に載った記憶
  がある。だが私は、そうは思わない。

  柏木の日記や書簡の翻刻は、飯沼先生亡きあと、私の孤独な、
  しかも無類の楽しみとなって現在に続く。 しだいに史料にたい
  する関心の裾野は広がり、柏木への来簡も手がけるようになっ
  た。

  江戸の手習いから明治の学習へ、文字は多様に変化する。
  とりわけ東洋と西洋の交錯する明治を生きた人々の素養は実に
  奧が深い。女性の仮名文字は、同じ手紙のうちでも字体を違え
  る。

  たとえば「れ」の字を「連」からのくずしにするか、「礼」
  からのくずしにするか、それは書く本人の気分と美意識による。

  育った環境の違いもあれば関心の違いも表れる。 幕末から明治
  へ、激変する生活は文体にも変化をもたらした。
  同じことが漢字にもある。

  戦後の教育では、「深切」は「親切」と書かなければ間違い、
  「政事」またしかりである。
 
  しかし、福沢諭吉の『学間のすゝめ』でも「深切」や「政事」
  は当然のように出てくる。明治初年の文献では、これらは例外
  ではない。

  作字や合成字も盛んに用いられた。多少時代は下るが漱石の『猫』
  の馬尻(バケツ)などは周知のところであろう。


  平生日記の第一卷の巻末の外国の地名や国名の漢字表記一覧
  がとてもおもしろい。英吉利(イギリス)、埃及(エジプト)などは
  おなじみだが、智利(チリ)、塞爾維(セルビア)などにはなかなか
  お目にかからない。

  これらは平生の視野の広さを雄弁に物語っている。


  近代文書の解読は、多くの困難をともなう。
  読み手は頭を柔軟にすることが肝要である。漢字表記の統一の
  過程に想いを馳せながら、私は、作業中によく近代教育の画一化
  の弊害を感じたものだった。

  ひとつの言葉も場合によって込める意味を違えることがあるだろう
  と。
  文字使いは、まさに書き手と読み手の手探りの工夫による心の触れ
  合いであり、ときに思想にまで昇華するもので、機械によっては
  なしえないことだと思うのである。


  結局、私は、柏木宛の書簡で躓(つまず)いた。

  徳富蘇峰、徳冨蘆花、徳富愛子ら文学者やジャーナリスト、
  安部磯雄、浮田和民ら教育者、研究者、賀川豊彦ら社会運動家、
  古谷久綱ら官更から政治家への転身を果たした人物や深井英五
  日銀総裁、柏木の恩師の妻新島八重、柏木の妻かや子らの女性文字、
  それに名もない庶民たちの文字である。

   (つづく)


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