●2012年12月21日 (金)
▼昼休み、きょうも中江兆民『一年有半 続一年有半』を読む。
帰り、地下鉄「新開地」駅に降り、煙草を買い改札横の本屋を
見る。
シャッターに貼ってあった
『諸般の事情により、閉店することになりました。
60年間のご愛顧に感謝いたします』
の貼り紙はもうなくなっていた。
隣の喫茶店で、また『一年有半 続一年有半』を読む。
▼中江兆民について、彼に『民約論』『三酔人経綸問答』の著作があり、明治の
「啓蒙思想家」であるというくらいの、学校で習う知識はあったが、どんな
「人となり」であり、どんな「人物」であるか、その知識は全くなかった。
ただ、兆民の子「中江丑吉」ついては、鶴見俊輔が雑誌『思想の科学』に
ずっと昔、採りあげたことがあり読んでいる。
私の中では「魯迅―丑吉―兆民」という関係でつながる、「思想の人」と
して記憶にとどまってる。
▼また、正岡子規についても、学校で習う以上の知識はあったものの、俳句の子規、
肺病に冒された子規、そして『墨汁一滴』『病牀六尺』などなどの子規、
くらいの知識しかなかった。
この二人を結びつけたのが、早坂暁さんの文章だった。
しかも、『仰臥漫録』で、子規が兆民に、
「生命を売物にしたるは卑し」
と、兆民の「生き方」に手鉤をかけたのである。
▼死後、『仰臥漫録』が公開されることは、子規はうすうす知っていた。
明治34年10月9日、虚子は『仰臥漫録』を代筆した。
「右九日分虚子記」と、10月9日の項に、わざわざ書き加え(虚子の字?)
その後ろに、子規が、さらに書いている。
また、虚子が「ホトトギス」の「消息」欄に、
「行く行くは本誌に掲載の栄を得べく候」と書いたところ、
子規から、
「仰臥漫録はすこしも情をためず何も彼もしるしつつあるなり」と
強く叱責されたそうだ。(角川版『仰臥漫録』 解説:嵐山光三郎)
▼(また、このとき、子規は「不機嫌になった」ような事を
どこかで、読んだような気がするが、私の勘違いか?)
※「十月二十九日、虚子が来て『仰臥漫録』を「ホトトギス」に
連載できぬかと、といったとき、子規は不快を感じた。
自分の死への道程を『一年有半』のごとく万人の娯楽とする
つもりかと、思ったのである」
(何の資料からか、関川夏央が『子規、最後の八年』で書いていた)
10月29日は、『仰臥漫録』に「十月二十九日 曇」とだけ書いて、
そのあと、翌明治35年3月10日まで、日記は空白となる日だ。
▼『仰臥漫録』は、明治38年1月1日号「ホトトギス」に「附録」として
公表された。
絵と、家族への言及部分はカットしてあった。
ちなみに、『仰臥漫録』岩波文庫の初版は、1927年(昭和2年)7月10日と
なっており、絵や、律に言及した部分など「原本」通りのものが、公開され
現在、何万部が売れたか知らないが、2009年11月25日で「56刷」
となっている。
▼いずれにせよ、没後いつかは、『仰臥漫録』は公表され
「子規研究」の材料に、しかも大きな意味をもつ材料に
なることは、子規は承知していた、と私は思う。
世には、「公表しない手控えの日記」とされているが、
子規にとって、公表は覚悟の上、だったと思う。
▼兆民の『一年有半』は、正確には『一年有半 生前の遺稿』である。
本来は、死後公にするつもりのものが「生前の遺稿」という形になった。
そして、兆民はそのことに反対しなかった。
「先生、晒(わら)ふて甚だ拒まず。いふ、惟(ただ)汝善くこれを図れ」
と、幸徳秋水に一任し、「生前の遺稿」として発表された。
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