●6月26日(土) 雨
▼メモ
・TVでwowoの「
空飛ぶタイヤ」をやっていた。
終わってチャンネルをまわすと、浜辺でフロックコートを着た男が
歩いている、どこかで見たことがあるような映像が映っていた。
「禮三」という言葉も聞こえて来た。
なかにし礼「兄弟」の
TVドラマだった。
DVDにもなっているらしい。
でも兄役「ビートたけし」はミスキャストだ。
■茂くんのこと
▼「茂くん」は、小学時代からの私の友人で、あす大阪まで出てくるので
会うことになっている。
彼には男兄弟が何人かいて、「茂」とか「通」とか、みんな漢字一字の名前だった。
小学校の頃、彼の家に行って遊びに誘い出そうとすると、彼のお母さんは、
「シゲル、友達がきちょるよ!」と奥に向かって叫び、私には「シゲルは、いまから
家の手伝い、せにゃいかんとよ」と言った。
出て来た彼は、ちらっと母親を見て、「また、こんど遊ぼう」と言った。
▼私は小学校四年のとき、宮崎に引っ越してきたが、彼の家も父親が亡くなったか
何かして、博多から宮崎に引っ越してきたようだ。
家は「飲み屋」をやっていて、これも我が家と同じだった。
私の母親は、ときどき「茂くんを見習いなさい。家の手伝いして、ほんとうに
感心な子だよ」と言った。
私は不承不承、枝豆のさやの端をハサミで切りとるのを手伝った。
▼小学時代の彼は「ひょうきんな男の子」だった。
クラスでも人気があった。
私もときどき、彼の真似をしてふざけてみたが、私の柄ではなく、
私のふざけはちっとも面白くなく、様にならないことが分かった。
「人には天賦の才というものがある」ということを知った。
▼彼とは中学・高校もいっしょだった。
高校ではクラブ(新聞部)もいっしょだった。
高校にあがってから、彼はこれまで私が知らなかった一面を見せた。
「生徒会長」を務めた。
これまでの「ひょうきんな男の子」とはちがって、リーダー役を引き受けるように
なっていた。
▼高校三年のとき、日本育英会の「大学特別奨学生」の募集があった。
学業優秀で経済的に恵まれない生徒に対し、進学の道を開くために、
高校在学中に、大学進学したときは「特別奨学生」に採用することを約束する
ものであった。
当時、大学の「奨学生」貸与月額は3000円であったが、「特別奨学生」の
貸与額は8000円であった。大学の授業料が1000円、大学の下宿生活が
1か月1万円で生活できた時代だ。
8000円は大きかった。しかも、返済は「奨学生」の3000円でよく、
教師になった場合は、全額返済免除の優遇措置までついていた。
▼学校からこの制度の案内があって、父は私に、特別奨学生の申請をするよう
に言った。
しかし、私はこれに反対した。
茂くんが申請すると言っていたのを、聞いてたからだ。
私は「茂くんのところの方が特別奨学生にふさわしい」と思った。
学校には推薦枠があり、その枠を彼と競うことが厭だった。
・・・・
夏の暑い日、学校の講堂で試験があったように思う。
彼と私がいた・・・。
ほかに他校からも受験に来ていたかもしれない・・・。
もう、ほとんど覚えていない。
いやな感じだった。
▼だが、私の心配は杞憂に終わった。
二人とも「特別奨学生」の試験にパスした。
彼は九州の国立の工業系の大学を目指していた。
そのころは「ひょうきんな男の子」は、よく勉強する生徒に
なっていた。
しかし、彼は翌春の大学受験をあきらめなければならなかった。
30分として椅子に腰かけられなくなったからだ。
もし、彼が、脊椎か坐骨神経痛のような病気にならなかったら、
彼はきっと大学に受かったと思う。
・・・・
「特別奨学生」の待遇がなくなった次の年、彼はもう一度、進学するために
勉強を始めた。
しかし、病状は芳しくなかった・・・。
▼彼が店を継ぐことを決めたのは、私が大学二年のころだったか。
夏、帰省して彼の家を訪ねると、彼は母親といっしょに「店」に出ていた。
彼は「ちょっと出てくる」と言って、店のカネをポケットに入れ、私といっしょに
店を出た。
出がけに、彼のお母さんは小学生の私に向けたときと、同じような目つきを
していた。
▼それからも、年に何回か、宮崎に帰るたびに、私は彼の店に行った。
大学生のころも、働き出し、子供が出来たあとも。
帰るたびに、彼と会った。
・・・・
いつごろだったか、私も少し酒が飲めるようになって、私は彼を連れ出さずに、
彼の「店」で飲むようにした。
彼のお母さんは、「あんたはいいねぇ、うちのシゲルは、いまだ独りもんで
この先どうなるのだろう」と愚痴った。
▼「あんたとこはいいね。お孫さんは何人かね。幾つにならしゃっと。
わたしゃ、この子が結婚せんうちは、死んでも死にきれんばい・・」
と言っていたお母さんも、もう随分前に亡くなった。
店には、前にお母さんが立っていたところに、和服の女の人が立っていた。
嫁さんだろうと思ったが、深くは聞かなかった。
▼あれからも、帰省すれば、必ず、彼の「店」に寄った。
今度は、彼が私といっしょに外に出ようとすると、嫁さんが
母親と同じ目つきをした。
・・・・
私は、我が家の「店」を継ごうという気は全然なかった。
父母が亡くなり、我が家の「店」はいま別の人がやっている。
茂くんは、どうだったのだろう。
彼の「店」はもう60年以上続く、宮崎でも最古参の「飲み屋」になった。
▼「こんど来る時は、ムスコを連れてきない。どんなお父さんか
オレが話しちゃるかい・・」
そんなことを彼は言っていたが、私の父母が亡くなって、最近では、
妻の実家の法事でもなければ、宮崎に帰ることがない。
逆に、彼はときどき大阪に出てくる。
舞鶴かどこかに親戚か何かあるのか、そのついでに
大阪まで出てくる。
彼と会うのは、そんなときだ。
▼しかし、その「上阪」も間遠になっている。
「もう、動くのがよだきいが・・」
と言う。
「よだきい」とは宮崎の言葉で、「億劫(おっくう)だ」という意味である。
寄る年並みになってきた、ということか。
もちろん会っても特別な話があるわけでなく、互いの近況やら
とりとめのない話をして別れる。
それだけのことであるが、楽しみである。
そして、少しずつ、こんな楽しみも、あと勘定できるほどの数に
なってきていることにも気づいている。
その彼と私と、小学校5年・6年のときのクラスが同じで、しかも高校も
一緒だった「可愛い女の子」が二人、あした大阪で会うことになっている。
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