mixiユーザー(id:1040600)

2010年06月26日19:42

47 view

■茂くんのこと

●6月26日(土)  雨

 ▼メモ
  ・TVでwowoの「空飛ぶタイヤ」をやっていた。
   終わってチャンネルをまわすと、浜辺でフロックコートを着た男が
   歩いている、どこかで見たことがあるような映像が映っていた。
   「禮三」という言葉も聞こえて来た。
   なかにし礼「兄弟」のTVドラマだった。DVDにもなっているらしい。
   でも兄役「ビートたけし」はミスキャストだ。



■茂くんのこと

 ▼「茂くん」は、小学時代からの私の友人で、あす大阪まで出てくるので
  会うことになっている。

  彼には男兄弟が何人かいて、「茂」とか「通」とか、みんな漢字一字の名前だった。
  小学校の頃、彼の家に行って遊びに誘い出そうとすると、彼のお母さんは、
  「シゲル、友達がきちょるよ!」と奥に向かって叫び、私には「シゲルは、いまから
   家の手伝い、せにゃいかんとよ」と言った。
  出て来た彼は、ちらっと母親を見て、「また、こんど遊ぼう」と言った。


 ▼私は小学校四年のとき、宮崎に引っ越してきたが、彼の家も父親が亡くなったか
  何かして、博多から宮崎に引っ越してきたようだ。

  家は「飲み屋」をやっていて、これも我が家と同じだった。

  私の母親は、ときどき「茂くんを見習いなさい。家の手伝いして、ほんとうに
  感心な子だよ」と言った。
  私は不承不承、枝豆のさやの端をハサミで切りとるのを手伝った。


 ▼小学時代の彼は「ひょうきんな男の子」だった。
  クラスでも人気があった。

  私もときどき、彼の真似をしてふざけてみたが、私の柄ではなく、
  私のふざけはちっとも面白くなく、様にならないことが分かった。
  「人には天賦の才というものがある」ということを知った。


 ▼彼とは中学・高校もいっしょだった。
  高校ではクラブ(新聞部)もいっしょだった。

  高校にあがってから、彼はこれまで私が知らなかった一面を見せた。
  「生徒会長」を務めた。
  これまでの「ひょうきんな男の子」とはちがって、リーダー役を引き受けるように
  なっていた。

  
 ▼高校三年のとき、日本育英会の「大学特別奨学生」の募集があった。

  学業優秀で経済的に恵まれない生徒に対し、進学の道を開くために、
  高校在学中に、大学進学したときは「特別奨学生」に採用することを約束する
  ものであった。


  当時、大学の「奨学生」貸与月額は3000円であったが、「特別奨学生」の
  貸与額は8000円であった。大学の授業料が1000円、大学の下宿生活が
  1か月1万円で生活できた時代だ。

  8000円は大きかった。しかも、返済は「奨学生」の3000円でよく、
  教師になった場合は、全額返済免除の優遇措置までついていた。


 ▼学校からこの制度の案内があって、父は私に、特別奨学生の申請をするよう
  に言った。

  しかし、私はこれに反対した。
  茂くんが申請すると言っていたのを、聞いてたからだ。
 
  私は「茂くんのところの方が特別奨学生にふさわしい」と思った。

  学校には推薦枠があり、その枠を彼と競うことが厭だった。


    ・・・・


  夏の暑い日、学校の講堂で試験があったように思う。
  彼と私がいた・・・。
  ほかに他校からも受験に来ていたかもしれない・・・。

  もう、ほとんど覚えていない。
  いやな感じだった。



 ▼だが、私の心配は杞憂に終わった。
  二人とも「特別奨学生」の試験にパスした。

  彼は九州の国立の工業系の大学を目指していた。
  そのころは「ひょうきんな男の子」は、よく勉強する生徒に
  なっていた。

  しかし、彼は翌春の大学受験をあきらめなければならなかった。
  30分として椅子に腰かけられなくなったからだ。


  もし、彼が、脊椎か坐骨神経痛のような病気にならなかったら、
  彼はきっと大学に受かったと思う。

    ・・・・

  「特別奨学生」の待遇がなくなった次の年、彼はもう一度、進学するために
  勉強を始めた。
  しかし、病状は芳しくなかった・・・。


 ▼彼が店を継ぐことを決めたのは、私が大学二年のころだったか。
  夏、帰省して彼の家を訪ねると、彼は母親といっしょに「店」に出ていた。

  彼は「ちょっと出てくる」と言って、店のカネをポケットに入れ、私といっしょに
  店を出た。

  出がけに、彼のお母さんは小学生の私に向けたときと、同じような目つきを
  していた。


 ▼それからも、年に何回か、宮崎に帰るたびに、私は彼の店に行った。
  大学生のころも、働き出し、子供が出来たあとも。

  帰るたびに、彼と会った。

    ・・・・

  いつごろだったか、私も少し酒が飲めるようになって、私は彼を連れ出さずに、
  彼の「店」で飲むようにした。

  彼のお母さんは、「あんたはいいねぇ、うちのシゲルは、いまだ独りもんで
  この先どうなるのだろう」と愚痴った。


 ▼「あんたとこはいいね。お孫さんは何人かね。幾つにならしゃっと。
   わたしゃ、この子が結婚せんうちは、死んでも死にきれんばい・・」
  と言っていたお母さんも、もう随分前に亡くなった。

  店には、前にお母さんが立っていたところに、和服の女の人が立っていた。


  嫁さんだろうと思ったが、深くは聞かなかった。


 ▼あれからも、帰省すれば、必ず、彼の「店」に寄った。
  今度は、彼が私といっしょに外に出ようとすると、嫁さんが
  母親と同じ目つきをした。

    ・・・・

  私は、我が家の「店」を継ごうという気は全然なかった。
  父母が亡くなり、我が家の「店」はいま別の人がやっている。

  茂くんは、どうだったのだろう。
  彼の「店」はもう60年以上続く、宮崎でも最古参の「飲み屋」になった。

  

 ▼「こんど来る時は、ムスコを連れてきない。どんなお父さんか
   オレが話しちゃるかい・・」

  そんなことを彼は言っていたが、私の父母が亡くなって、最近では、
  妻の実家の法事でもなければ、宮崎に帰ることがない。


  逆に、彼はときどき大阪に出てくる。

  舞鶴かどこかに親戚か何かあるのか、そのついでに
  大阪まで出てくる。

  彼と会うのは、そんなときだ。


 ▼しかし、その「上阪」も間遠になっている。
  
  「もう、動くのがよだきいが・・」

  と言う。

  「よだきい」とは宮崎の言葉で、「億劫(おっくう)だ」という意味である。
  寄る年並みになってきた、ということか。

  もちろん会っても特別な話があるわけでなく、互いの近況やら
  とりとめのない話をして別れる。

  それだけのことであるが、楽しみである。
  そして、少しずつ、こんな楽しみも、あと勘定できるほどの数に
  なってきていることにも気づいている。


  その彼と私と、小学校5年・6年のときのクラスが同じで、しかも高校も
  一緒だった「可愛い女の子」が二人、あした大阪で会うことになっている。


0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する