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2009年08月08日23:53

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■兄弟と兄妹

●8月8日(土)  晴れ一時曇り

 三日ほど前、関西のニュースで
 <野坂昭如『火垂るの墓』を歩く>という企画を
 報道していた。
 八月六日や九日、また十五日が近付くと
 TVが風物詩のように流す「特別番組」と同じで
 この時期にあわせた、ある民間ボランティア団体が
 開催した「文学散歩」のニュースである。


●小説『火垂るの墓』は文庫本ならば、三十ページほどの掌編ですぐに
 読めるし、アニメ映画にもなっており、三宮・御影・夙川など近在に住む
 人々にとっては、六十四年前の「神戸空襲」を思い起こし、老若男女だれでもが
 参加できる企画のように思われる。

 そして、中学三年の兄・清太と四歳の妹・節子の、「兄妹」を描いたこの作品は
 家族や兄弟のことも思い出させる。


●昭和二十年六月五日、神戸はB29の編隊三百五十機による空襲を受け、
 葺合、生田、灘、須磨、および東神戸の五ヶ町村がことごとく焼き払われた。

 同じ年の七月、神戸の中突堤から船で洲本に渡り、そこから更にバスで小一時間
 かかる淡路島の旧地名、三原郡津井内原で私は生まれた。

 祖母に連れられて、神戸の将軍通りの遠い親戚の家に行ったのは
 昭和二十五年くらいのころで、小説の舞台になっている省線(国鉄)三宮駅構内は、
 当時ともそう変わってはいなかった。中突堤や国鉄の駅には黒いホロが
 かかった人力車が並んでいて、神戸駅前にはバラックと屋台がいっぱいあったのを
 覚えている。


●戦後の歩み、というか
 貧しい時代というか、昭和二十年に生まれた私には
 ほんのすこしだけ、そういうときに
 家族で、それはまた兄弟といっしょにということであるが、
 ともに暮らした、という記憶が残っている。

 妹は私より六歳年下で、誕生日は一日違いだった。
 父がシベリアから引き揚げてきて、それからできた子だった。
 私は四歳のころ父とはじめて顔を合わせて、以来父となごむことはなかったが、
 父は妹をかわいがった。

 妹はよく私のあとをついてきた。しばらくは両親と離れ、妹と私と二人で
 叔父の家のやっかいになったが、親代わりの役割が私にはあった。
 服の着替えや食事や風呂など、遊びや子守り以外の世話もあった。
 宮崎に行ってからも、よその二階に間借りしており、両親は夜中にならないと
 帰ってこないので、妹が幼稚園に通う頃まで、私が妹の面倒を見るそんな生活だった。

 妹は、なんでも私の後についてきた。
 高校も、そこでのクラブも、私と同じものを選んだ。
 私が宮崎を離れ神戸に発ったとき、妹は置いて行かれたと思った。
 私が結婚したとき、妹は棄てられたと思った。


●妹が生まれて二歳になる前のころ、父は毛糸の水着を買ってきて
 それを着せて金盥に水を張り、写真を撮った。

 なんとなく妹が「ひ弱」に見えた。

 その妹も死んでしまって、今年で何年になるのだろう。
 それさえ忘れる。

 妹が生まれる前の年であろう、祖母がやってきて
 あわただしくして湯など沸かし、私には外で遊ぶように
 言いつけた。それから産婆がやってきて、奥の部屋で何かが
 あったようで、それを私は外から眺めていた。

 死産で、男の子だった。

 もし生きて育っていれば、弟である。
 もし、私に弟がいれば、私の考え方や人生は
 どんな風に変わっていただろうか、などと、ふと思う。


  内藤やす子「弟よ」


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