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2009年07月19日01:20

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●うみうし独語(411)/■『狂人日記』 (3)

■『狂人日記』 (3)

 ●7月19日(日)  まだ未明、風なく蒸す

  妻が寝た。

  私が風呂をしなかったため、シャワーをして
  寝たらしい。

  きょうは蒸す。しかも風がない。
  夜でも暑い。

  土曜日から日曜日にかけての夜。
  風呂に湯がたまるまでの間、
  きのうの続きを書いてみる。



 ●――ぼくが真実を口にすると
     ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって、
     ぼくは廃人であるそうだ。

           (吉本隆明『廃人のうた』)

  「本」の扉に、こう書かれていたのは、内村剛介『生き急ぐ』(三省堂)であった。
  この「本」も鬱々したとき読んだ。

    
     日常はいわば生の擬態にすぎぬ。
     生はその日常を奪うものにのみ自らを開示する。
     この「日常を奪い、生を創造する者」を異端というなら、
     生はそもそも異端者のものであり、いうならば
     気狂いたちに、廃人たちに所属する。

              (『生き急ぐ』 後記)
    


 ●いま、カギカッコや傍線が書きこまれたその「本」を取り出してきて
  かつての鬱々とした日々を思い出してみる。

  しかし、その内実がなんであったのか
  サッパリ思い出せない。

  そして、意味が分かるような分からぬような
  こんな生硬な文章に、全体重をかけるようにして
  読んで、線を引いた自分に若さを感じる。


  私が「狂人」と思った字句は、
  いま見ると「廃人」だったように
  過去の風景は、しだいにぼんやりとしてきて、
  その姿を変容させる。



 ●――自分はいうところの正常人乃至健康人ではない。
     自分の頭脳はこわれている。
     その実感は、今のところ、誰の判断よりも勝る。

     自分に関して云々できるものは自分しか居ない。
     自分に関する認識は、錯覚もあり、推定でもあり、
     都合に沿った甘いものでもあろう。

     答を出して片づくことことでもなかろうし、
     さまざまに不正確でもあろう。

     にもかかわらず、自分のことを他の誰にも委ねる意志がない以上、
     自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない。

           (色川武大『狂人日記』 同書 p8‐p9)


 ●吉本隆明や内村剛介のいう「異端者、気狂い・廃人」と、
  五十を過ぎた男の「狂人」がいう、この物云いの違いはどこに由来するのだろう。

  一方が詩や評論であって、これが小説だからだろうか。

  そうではない。吉本や内村が、いまだルサンチマンの亡霊のような
  「自分」を抱え込んで社会に向っているのに対し、男はただ「自分のことを
  他の誰にも委ねる意志がない以上、自分の不安定な実感を抱えているより
  仕方がない」と思うばかりだ。


  観念的でなく実質的で、エリート的でなく庶民的で、
  文学的でなく生活的で、さらに、なんとも謙虚で、健気で、
  健全であることか、と思う。



  「気が狂いそうだ」という。「頭がこわれそうだ」という。
  
  しかし、そんなとき、多く庶民は、

  「自分のことを他の誰にも委ねる意志がない以上、
   自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない」

  と思って生きてきた。

  

 ●そして、男は言葉を継いで次のように言う。


  ――我から狂人という者は狂人にあらず、などということが、
     こんな言葉くらい当てにならぬものはない。
     それは昔、情緒が安定していて、人がより大きなものに
     律せられて生きていた頃の言葉だ。


     狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、
     千差万別、度合の差あり、また間歇的に一定の時間のみ
     狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、
     完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。


     ほとんど度合の差であるにすぎず、しかもその度合は
     レントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。
     もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題が
     ほとんどである以上、この線がはっきりしいているべきだが、
     それも明確になっていない。
                       (同書 p9)



 ●事実として、ここに男が述べている通りであり、それが医学的に見ても
  真実であれば、私たちは程度の差こそあれ、みな「狂人」である。


  しかし、通常はそうではない。

  通常、多くの人はそうではないと思っている。
  多くの人は、通常、自分は狂っていると思わない。


  自分は「頭が狂っている」と思い、他人が「気が違ってる」と判断しないかぎり
  私たちは「正常」である。




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