■『狂人日記』 (3)
●7月19日(日) まだ未明、風なく蒸す
妻が寝た。
私が風呂をしなかったため、シャワーをして
寝たらしい。
きょうは蒸す。しかも風がない。
夜でも暑い。
土曜日から日曜日にかけての夜。
風呂に湯がたまるまでの間、
きのうの続きを書いてみる。
●――ぼくが真実を口にすると
ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって、
ぼくは廃人であるそうだ。
(吉本隆明『廃人のうた』)
「本」の扉に、こう書かれていたのは、
内村剛介『生き急ぐ』(三省堂)であった。
この「本」も鬱々したとき読んだ。
日常はいわば生の擬態にすぎぬ。
生はその日常を奪うものにのみ自らを開示する。
この「日常を奪い、生を創造する者」を異端というなら、
生はそもそも異端者のものであり、いうならば
気狂いたちに、廃人たちに所属する。
(『生き急ぐ』 後記)
●いま、カギカッコや傍線が書きこまれたその「本」を取り出してきて
かつての鬱々とした日々を思い出してみる。
しかし、その内実がなんであったのか
サッパリ思い出せない。
そして、意味が分かるような分からぬような
こんな生硬な文章に、全体重をかけるようにして
読んで、線を引いた自分に若さを感じる。
私が「狂人」と思った字句は、
いま見ると「廃人」だったように
過去の風景は、しだいにぼんやりとしてきて、
その姿を変容させる。
●――自分はいうところの正常人乃至健康人ではない。
自分の頭脳はこわれている。
その実感は、今のところ、誰の判断よりも勝る。
自分に関して云々できるものは自分しか居ない。
自分に関する認識は、錯覚もあり、推定でもあり、
都合に沿った甘いものでもあろう。
答を出して片づくことことでもなかろうし、
さまざまに不正確でもあろう。
にもかかわらず、自分のことを他の誰にも委ねる意志がない以上、
自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない。
(色川武大『狂人日記』 同書 p8‐p9)
●吉本隆明や内村剛介のいう「異端者、気狂い・廃人」と、
五十を過ぎた男の「狂人」がいう、この物云いの違いはどこに由来するのだろう。
一方が詩や評論であって、これが小説だからだろうか。
そうではない。吉本や内村が、いまだルサンチマンの亡霊のような
「自分」を抱え込んで社会に向っているのに対し、男はただ「自分のことを
他の誰にも委ねる意志がない以上、自分の不安定な実感を抱えているより
仕方がない」と思うばかりだ。
観念的でなく実質的で、エリート的でなく庶民的で、
文学的でなく生活的で、さらに、なんとも謙虚で、健気で、
健全であることか、と思う。
「気が狂いそうだ」という。「頭がこわれそうだ」という。
しかし、そんなとき、多く庶民は、
「自分のことを他の誰にも委ねる意志がない以上、
自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない」
と思って生きてきた。
●そして、男は言葉を継いで次のように言う。
――我から狂人という者は狂人にあらず、などということが、
こんな言葉くらい当てにならぬものはない。
それは昔、情緒が安定していて、人がより大きなものに
律せられて生きていた頃の言葉だ。
狂人とは、意識が健康でない者の総称であって、
千差万別、度合の差あり、また間歇的に一定の時間のみ
狂う者あり、部分的に一つの神経のみ病んでいる者あり、
完全に正常な意識を失っている者などごくわずかだ。
ほとんど度合の差であるにすぎず、しかもその度合は
レントゲンにもCTスキャンにも映るわけではない。
もともとどこまでが正常でどこからが狂疾か、度合の問題が
ほとんどである以上、この線がはっきりしいているべきだが、
それも明確になっていない。
(同書 p9)
●事実として、ここに男が述べている通りであり、それが医学的に見ても
真実であれば、私たちは程度の差こそあれ、みな「狂人」である。
しかし、通常はそうではない。
通常、多くの人はそうではないと思っている。
多くの人は、通常、自分は狂っていると思わない。
自分は「頭が狂っている」と思い、他人が「気が違ってる」と判断しないかぎり
私たちは「正常」である。
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