■くそまじめ
▼淡路−東京−淡路と、生まれてから小学三年生までに3回、引越しをし
生活の場を変えた。
小学四年生になるまで、この間、私は生来の性質に従って、よく遊んだ。
勉強の思い出はほとんどない。
▼東京で、母が近所の「そろばん塾」へ一度、通わせたことがあった。
寺子屋式の教室は、横に長い机に何人かが並んで座って、
「ねがいましては〜、○円なり〜」と先生が読み上げるのを聞いて、
黙々と、みなが一斉に、そろばんの珠をはじく。
その圧迫されたような、競争を強いられているような、そんな空気がいやで、
いやでたまらなかった。
結局、一ヶ月ももたないで、私はケツを割ったと思う。
▼「競争」には弱い人間だった。
意地張りで、強情で、負けず嫌いで、小さいころはよくケンカしたくせに、
「競争」は嫌いで、競争には、はなから負けているところがあった。
▼そんな私が、小学校4年のときに、淡路から宮崎に転校して、
「こみ」さんもいた「4年1組」の「日高正」先生のクラスに二学期から編入され、
私は「考える少年」になった。
▼学校にあがる前の幼い頃の、自分の「こころ」を思い出させる記憶に刻まれた
「とぎれとぎれのシーン」はあるが、自分に「こころ」があり、反省をし、「考える」という
ことを始め、「考えている」自分を意識するということが始まったのは、この学級や
小学校での生活、また学校がひけてからの友達との遊びからであった。
また、父・母・妹との一家4人のくらしのなかで起きたできごと、それらのことによって、
私は「考える」ようになった。
▼それは、私だけに起きる変化ではなく、人間の成長過程で起きる「自我の目覚め」で
あり、「思春期」のとば口に差しかかっていたことを告げるものだった。
▼私は、貧しいものにこころ寄せた。
それは自分が貧しかったから・・・。
私は、正義を求めた。
そうでなければ、自分のような貧しいものは、やっていかれなかったから・・・。
▼私は、素直だった。
当時の小学校は、いまと比べ、まだまだ、昔の「文部省推薦映画」や「文部省唱歌」の
ように、まじめで、教育は直球が投げられていた。
間違っても、いじめられる子にむかって、「いじめるのは悪いことだけど、でも、あなたにも、
いじめられやすいような要素があるのよネー」、なんてことは、絶対に言わなかった。
▼学校で習うことは「正しい」こととして、素直にそれを信じた。
私ほど素直に、学校で教えられることを信じ、それに従い、実践した児童はいないかも
しれない。
それくらい、私は「馬鹿」だった。
もし、生まれた年があと六、七年早かったら、間違いなく「皇国少年」になっていたろうと
思う。
▼級友の中には、もう自我の目覚めのある年齢で、とっくに「世間ずれ」していて、
子供ながら、処世のできる子供もいた。
それで当たり前だろうと思う。
教科書どおりに世間がなっているはずはない。
それは子供だってわかることだった。
私にも、それはわかっていた。
だが、私は誤っているのは「世間」であって、「世間」は「教科書」に書かれているように
あるべきだ、と考えた。
▼あるとき、交通規則の話があった。
「右側通行」ということを習った。
その日、私は小学校の裏門を出て、図書館の前を通り、公会堂の前を歩き、
橘通に出て信号を渡り、ずっと家まで「右側通行」で帰った。
「ヤバイ人」である。
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