■無窮の時間と私という現象
●人類が地上に現れ、それから幾代もの父母たちが
間違いなく暮らし、生きてきて
いま、この私に脈々と連なっている時間。
その時間の長さを思う。
私には、よくわからないが
時間とは、あるようであって
ないようなもので、あるのは「今」だけであって
過去の時間も、未来の時間も、
すべての時間は「今」に詰め込まれているのかもしれない。
時間には、ただ
「これあれば、これあり。これなければ、これなし」
という縁起の法に従う現象が生起しているばかり
だけかもしれない。
●法華経の熱心な信者であった宮沢賢治は、
詩集『春と修羅』の第一集の「序」に、次のような詩を書いている。
わたしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電灯の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電灯は失はれ)
(中略)
これられについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟(ひっきょう)こころのひとつの風物です
ただたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
●たしかに、そのようにも思う。
どこに座標軸をとるのか、その違いで
見え方もあらわれ方も違う。
時間は空間と交わって私の「今」を現象し、
無数の「今」は、私にとっての空間となり、
夜空の星々が、はるか昔の時間と姿を伝えるように
無限の空間は無窮の時間に連なって
ここで、かすかに瞬く「私」を現象しているかのようだ。
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