■年の瀬
・働き始めてから、「年の瀬」はいつも大晦日まで仕事で、
紅白がはじまる時間に帰宅できれば、いい方だった。
たいていは店舗応援で、店頭で「餅売り」をした。それが、
1982年(昭和57年)の暮れは宮崎で「年の瀬」を迎えた。
12月27日、母が亡くなったからだ。
・東京に住んでいた頃、母に連れられ、両国・千歳町から路面電車に
乗り、森下町まで正月用品の買出しに行った。栗の甘露煮、
田作り、ニシン、かまぼこ、数の子、大根、にんじん。
母はやはり晦日まで働いていて、もう充分暗くなった暮れの町を、
私を伴い、がま口からお金を出しては、荷物を持たせ、あわただしく
正月用品を取り揃えた。
裸電球の下で縄につるされた新巻き鮭を、母と私は立ち止まって
見た。
それはまるで、ひとつの「幸福」のように、まるごと一本の
鮭は、紅色の身に荒塩がキラキラと光り、すぐそこまで正月が
やってきていることを感じさせた。
真新しい真っ白の肌着、「福助」のシャツやパンツも買った。
・それからの私は、年末の光景をもう買い物客として思い出すことが
ない。
それがその年の暮れ、母の喪中のなか子供を連れて、
ささやかな正月を迎えるために、宮崎の街を買い物客として
歩いた。
あわただしさと、知らない人々のざわめきが心地よかった。
新しい年がやってくるように思えた。
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