■消費と生産
・人がくらしをたてるために、カネやモノを使うことを
一般に「消費」という。
また、そのカネやモノを使って「商品」をつくるときには、
これを「生産」という。
ひるがえって考えてみる。
何が「生産」で、何が「消費」かを。
・人間にとっては、人がくらし、生き、人を生み、育てることこそが
「生産」である。
人間や自然の観点からすれば、経済活動の「生産」は
自然や人間の労働力を「消費」し、モノをつくるための活動であって、
直接、人間をつくるわけではなく、よくよく考えると
それは「生産」と名乗ってはいるが、実は「消費」でしかない。
・「商品経済社会」では、事態は逆転して見える。
手段であるモノをつくることが「生産」であるかのように思われ、
本来の目的である、人間が生活することは「消費生活」となる。
そして、私たちは「消費者」と呼ばれる存在にすぎない。
■食う・くらし
・「石垣りん」さんは、かつて、こう言った。
「くらし」
食わずには生きていけない
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば
台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙
■欲望と「消費」
・人間生活の「くらし」が、本来の「生産」から「消費」に
とってかわられると、
「食う」は「消費」に変身し、
人は、何でも「消費」する。
人間は貪欲になり、「消費」も高度化する。
人は胃袋で食うことから、頭で食うようになる。
喜怒哀楽も食うし、「消費」もする。
「消費」は「消費」を呼び、「消費のための消費」が始まる。
そして、欲望のショウ・ウィンインドウには、どんなものでも並ぶ。
欲望は際限なく、何でも「商品」にする。
・しかし、残念なことに
いくら「消費」が高度化しても
売ってないものは、買えないし、
「商品」として
元来、「消費」の対象にないものは
自分で「生産」するしかない。
なのに
いま、人は
産卵のために川を遡上するサケのように
わが身を「自己消費」して
死に果てることを夢見ているようだ。
・でも、いま
「商品」にならないもの、
カネで買えないものとは何だろう。
「石垣りん」さんは、
「くらし」の中で、
食わすには生きてこれなかった
哀しみを
四十の日暮れ
私の目にはじめてあふれる獣の涙
と、歌っているが
なんでも「消費」する人々の目に
「獣の涙」はない。
・八柏龍紀というひとの、
<「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと>を読みながら
そんなことを考えた。
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