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2005年12月23日02:18

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●寄り道ついで (5)/■食う・くらし

■消費と生産

 ・人がくらしをたてるために、カネやモノを使うことを
  一般に「消費」という。
  また、そのカネやモノを使って「商品」をつくるときには、
  これを「生産」という。

  ひるがえって考えてみる。
  何が「生産」で、何が「消費」かを。
 

 ・人間にとっては、人がくらし、生き、人を生み、育てることこそが
  「生産」である。

  人間や自然の観点からすれば、経済活動の「生産」は
  自然や人間の労働力を「消費」し、モノをつくるための活動であって、
  直接、人間をつくるわけではなく、よくよく考えると
  それは「生産」と名乗ってはいるが、実は「消費」でしかない。



 ・「商品経済社会」では、事態は逆転して見える。

  手段であるモノをつくることが「生産」であるかのように思われ、
  本来の目的である、人間が生活することは「消費生活」となる。

  そして、私たちは「消費者」と呼ばれる存在にすぎない。




■食う・くらし

 ・「石垣りん」さんは、かつて、こう言った。


   「くらし」

    食わずには生きていけない
      メシを
      野菜を
      肉を
      空気を
      光を
      水を
      親を
      きょうだいを
      師を

    金もこころも
    食わずには生きてこれなかった。

    ふくれた腹をかかえ
    口をぬぐえば
    台所に散らばっている

      にんじんのしっぽ
      鳥の骨
      父のはらわた

    四十の日暮れ
    私の目にはじめてあふれる獣の涙


■欲望と「消費」

 ・人間生活の「くらし」が、本来の「生産」から「消費」に
  とってかわられると、
  「食う」は「消費」に変身し、
  人は、何でも「消費」する。
  

  人間は貪欲になり、「消費」も高度化する。

  人は胃袋で食うことから、頭で食うようになる。

  喜怒哀楽も食うし、「消費」もする。

  「消費」は「消費」を呼び、「消費のための消費」が始まる。

  そして、欲望のショウ・ウィンインドウには、どんなものでも並ぶ。

  欲望は際限なく、何でも「商品」にする。


 ・しかし、残念なことに
  いくら「消費」が高度化しても
  
  売ってないものは、買えないし、
  「商品」として
  元来、「消費」の対象にないものは
  自分で「生産」するしかない。

  なのに
  いま、人は
  産卵のために川を遡上するサケのように
  わが身を「自己消費」して
  死に果てることを夢見ているようだ。



 ・でも、いま
  「商品」にならないもの、
  カネで買えないものとは何だろう。

  「石垣りん」さんは、
  「くらし」の中で、

  食わすには生きてこれなかった
  哀しみを

    四十の日暮れ
    私の目にはじめてあふれる獣の涙

  と、歌っているが
  なんでも「消費」する人々の目に
  「獣の涙」はない。

 ・八柏龍紀というひとの、
  <「感動」禁止! 「涙」を消費する人びと>を読みながら
  そんなことを考えた。



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