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2021年09月26日22:07

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超短編小説『虫螻死にせし者』

『虫螻死にせし者』

 景色は左へ右へと見かけの移動を繰り返しながら少しずつ私に近づいて来る。いずれも見た事があるようなぼやけた水彩画だが、ただ足元の床面だけは薄っすらと埃が覆っているものの、焦茶色に木目がはっきりと現れている。
 随分前に死んだ爺さんはこんな事を言っていた。
「いいか、早死にしたくなけりゃよく聞け。俺たちにはいくらでも代わりが居る。逆に死んでもいい奴がいくらでも居るって事だが、お前さん、自分は死んでもいい奴だと思うかい?」
「爺さん、哲学者か?そんな回りくどい言い方しねえで、死にたくないだろ?こう訊けばいいんじゃねえか?ああ、当たり前だ、当然死にたくはねえ。」
 私は時間を潰されるのが嫌で爺さんを横目で睨みつけた。
「まあ俺はいつ死んでもいいくらいに長生きしたんだがな。とにかく早い話が、」
「全然早くねえよ。」
「確かに。そう、いつだって明るい日は気をつけな。天から闇が降ってくる。耳を澄ませ。風を感じろ。景色の移ろいに気を配れ。死には流れがある。それをいち早く感じ取る事が肝心なのさ。」
「くだらねえ。」
 私はそう吐き捨ててその場を去った。その直後だった天の闇が爺さんを押し潰した。それまで爺さんがいくつも掻い潜って来た闇を、私が間一髪初めて逃れた瞬間だった。
 激しい地鳴りに私は震え上がった。はっきりとは把握出来なかったが、景色全体が歪んだのが分かった。闇は突然現れる。くだらねえ、と蔑んだ爺さんの言葉を何度も思い返した。そうして私はいつしか爺さんになっていた。
 若い奴に会えば、あの時の爺さんと同じように煙たがれた。
「死には流れがある。くだらねえと思うだろ、へへ。」
 すぐに私も虫螻死にする。ほら流れがやって来た。
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