77年10月25日、日本武道館では2大格闘技戦が行われました。
まず、セミファイナルに組まれたのが元柔道日本一(65年全日本選手権優勝)の坂口とモントリオール五輪柔道重量級銅メダリスト、アレン・コージ(バッファロー・アレン)による柔道ジャケットマッチ。
これまで柔道ジャケットマッチは全日本プロレスのリングでアントン・ヘーシンクをどうにか活かせないか?という考えの元、3回行われて来ました。
ゴリラ・モンスーン(74年6月13日、東京体育館)、ドン・レオ・ジョナサン(74年11月5日、大田区体育館)、カリプス・ハリケーン(75年1月25日、横浜文化体育館)でいずれもヘーシンクが勝っていますが、膠着ばかりしていて見せ場もなく、結果的には失敗に終わりました。
特にハリケーンは覆面に柔道着着用で完全にマンガチックになってしまい、さすがの馬場もこれで打ち止め、と思ったことでしょう。
新日本プロレスは坂口がいながら、これまで柔道ジャケットマッチをやって来なかったのは全日本のヘーシンクの柔道ジャケットマッチを見て茶番と思われたくない気持ちがあったかと思います。
しかし、モハメド・アリ戦で背負った負債を返済すべく、坂口副社長にも一肌脱いでもらう必要がありました。
アレンは43年ペンシルバニア州ハリスバーグ出身の黒人柔道家で、同州フィラデルフィア在住の日本人柔道家、米塚義定に師事していましたが、柔道では飯が食えず、プロレス転向を希望していたところ、格闘技路線を踏襲していた新日本に売り込みをかけたものです。
試合は3分10ラウンドで行われ、特別レフェリーはウィリエム・ルスカが務めました。
アレンも得意の寝技で坂口を追い込む場面もありましたが、まだこの時点では坂口と比べてかなり軽量であり、徐々に体格差で勝る坂口がアレンを圧倒。
5ラウンド2分7秒、送り襟絞めにより、坂口が危なげない勝利を飾っています。
この試合を機に坂口も異種格闘技路線へ足を踏み入れることになりました。
メインイベントは猪木とプロボクシング元ヘビー級世界ランカー、映画「ロッキー」のモデルになったことでも知られるベイヨンの流血人と言われたチャック・ウェップナーとの一戦。
この時期、猪木とマネージャーの新間寿はアリとの再戦に向けて動いており、当初はこの日、元世界ヘビー級王者であるジョージ・フォアマンとの対戦を交渉していたものの、フォアマン側が難色を示しました。
結局、前76年6月25日(日本時間26日)にニューヨーク・センチュリー・シェアスタジアムでアンドレ・ザ・ジャイアントと異種格闘技戦で対戦し、リング下に落とされてリングアウト負けしたウェップナーがオファーを受けて猪木と対戦するに至りました。
この日の武道館のカードが2大格闘技戦になったのも、「アンドレに負けたウェップナー」が猪木の相手ではフォアマンよりかなり格落ち、ということでチケットの売行を考慮してのことかと思われます。
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