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2014年07月21日17:03

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■「柳田国男の語り口」 (5)

●2014年07月21日(月)  晴れ

 ▼セミが鳴きやんだ、夕方5時。
  日はまだ残り、西日が団地に当たる。

  その中、団地のどこか
  緑の植込みのほうで
  ウグイスが鳴く。

  風情も何もない。
  でも、ウグイスは
  人間の感傷などかまわず
  きょうも鳴く。

  春から夏まで
  ホーホケキョと
  鳴く。


 くれぐれも「焼き鳥」などには
 ならぬように。



 ▼きょう2本目の日記、「柳田国男の語り口」である。

  「子供が泣く」ということにはじまって、次のような指摘がある。

   
     表現は必ず言語によるということ、これは明らかに事実とは反し
     ている、ことに日本人は眼の色や顔の動きで、かなり微細な心のう
     ちを、表出する能力を具えている。

     誰しもその事実は十二分に経験しておりながら、しかもなお形式的
     には、言語を表現の唯一手段であるかのごとく、言いもしまた時時
     は考えようともしている。


     これは学問の悲しむべき化石状態であって、新たに国の針路を決し
     なければならぬ当代においては、ことに深く反省してみるべき惰性
     または因習であるかと、私などは考えている。



 ▼今日、状況はますます「進化」というより、「深化・深刻化」しているのでは
  なかろうか。
  私には、そう思えてならない。


  「言葉で言わねば、わからない、伝わらない」、自己表見、自己アピールの
  必要性は認める。

  しかし、言葉に出さなくても、相手の目を見れば、その表情を見ればわかることが
  ある。


  「言葉」に頼らねばわからぬほど鈍感になってきたのは、いつごろからか?

  「以心伝心」などは古臭く、欧米風の自己表出やディベイトなどが新しいとして
  強調されるようになるにつれ、それに反比例して、「言葉に頼らない理解力」は
  乏しくなったのではないか。

  そして、「言葉に頼らない理解力」は、「人を理解する能力」の基底になる
  ものであり、これの低下は、「言葉による理解力」がいくら高まったように見えても
  実は「虚しい言葉」なのではないか。


  私はそんなことを考える。




 ▼以下、「涕泣史談」(五)である。




    涕 泣 史 談


     (五)


      つい最近にも、雑誌の「婦人之友」だったかで、子供を泣かせぬ
     ようにするのが、育児法の理想であるというようなことを、論じて
     いた婦人があって、私も至極もっともなことだと思ったことであっ
     たが、この感想などはおそらくは現代の公論であって、それがまた
     有力に結果の上にも顕われているのかと思う。


     ところがこれとまったくちがった考えの人心、以前は確かにあった。
     「泣く児は育つ」「泣く児は頭堅し」という類の諺心古く世に行わ
     れ、また泣くのは丈夫だからだなどといったのも、必ずしも気休め
     の語ではなかったらしい。


     子供は泣くのが商売だからと、平気でそういっている母親もあった。
     実際また夜啼きには閉口するけれども、生まれたばかりの赤児など
     は、あんまり啼かぬと気にかける親もあった。

     このごろ読んでみた津村涼庵の「譚海」の中に、赤穂義士の一人堀
     部安兵衛の妻女、尼となって長命していた者の談話というのが、十
     何箇条か筆録してある。


     この婦人は子持たずに終ったかと思われるのに、やや珍しい育児の
     経験談がある。

     多分は人の話に同感をしたか、または脇にいて観察をしたかであろ
     う。
        小児の泣くといふこと、制せずに泣かすがよし。
        その児成長して後、物いひ仲びらかになるもの
        なりと、同じ尼の物語なり。
     とある。


     私はこれを元禄時代の一つの常識であって、この尼老年の頃になる
     ともう変遷して、聴く人に意外な感を抱かせるようになっていた例
     かと思う。


     少なくともかつては叱って打ったりするほどの干渉をすらも加えず
     に勝手に泣かせておいた社会もあったのかと想像している。

     その考え方が果して正しいかどうか。
     つまりは泣きたいほど泣かせるということが、言いたいことを何で
     も言い得る技能の、養成法として役に立つものかどうか。


     新しい文化科学の方面からは、今はまだいずれとも確かめられては
     いない。

     人の表現技能の一般の貧弱さを散いている我々は、ともかくもこう
     いう前代人の実験的知識に、深い注意を払わずにはいられないので
     ある。



      今日の有識人に省みられておらぬ事実はいろいろある中に、特に
     大切だと思われる一つは、泣くということが一種の表現手段であっ
     たのを、忘れかかっているということである。

     言葉を使うよりももっと簡明かつ適切に、自己を表示する方法とし
     て、これが用いられていたのだということは、学者がかえって気づ
     かずにいるのではないかと思われる。


     この点に立脚して考えると、同じ一つのナクという動詞をもって言
     い現わされるもう一つの行為、すなわち「涙をこぼす」「悲しむ」
     または「哀れがる」行為、すなわち忍び泣きと呼ばるる方のナクは、
     単語は同じでも全然別種のものであって、しかも現在はこの両者の
     間に、大きな混同が生じていることが認められる。



      表現は必ず言語によるということ、これは明らかに事実とは反し
     ている、ことに日本人は眼の色や顔の動きで、かなり微細な心のう
     ちを、表出する能力を具えている。

     誰しもその事実は十二分に経験しておりながら、しかもなお形式的
     には、言語を表現の唯一手段であるかのごとく、言いもしまた時時
     は考えようともしている。


     これは学問の悲しむべき化石状態であって、新たに国の針路を決し
     なければならぬ当代においては、ことに深く反省してみるべき惰性
     または因習であるかと、私などは考えている。




   ★★★  ★★★  ★★★  ★★★  ★★★

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