●2014年02月28日(金) 晴れ
▼昨日は雨だったので、一日遅らせ、きょう賀川記念館に行く。
4冊返却し、2冊借りる。
帰り道は記念館(友愛幼稚園)を北に歩く。突き当たりのT字路を東に50mほど
行くと四つ角があり、その東南角には「神戸市生涯学習センター」がある。
また、北には「大安亭市場」の入り口がある。
きょうはカメラをもってこなかったので、グーグルの地図の中に入って
そこに見える「画像」を貼り付けておく。
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http://kobe.areablog.jp/gmap/map_popup.asp?post_idx=10457116
(地図を拡大して、左上の「人形」を「神戸市生涯学習センター」の所にドローする)
▼「なでしこジャパン」のメンバーであるINAC神戸の選手たちが、この
「大安亭市場」に買い物に立ち寄るので、急に有名になった。
市場の中を通ってまっすぐ北にいくとJRの高架に出る。
JRの電車からも「大安亭市場」の北入口が見えるのだが、いままで
一回も行ったことがないので、前々回、賀川記念館に来たとき、この界隈から
三宮までの写真を撮った。
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http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000089054457&owner_id=1040600
市場の中は、こんな感じで、昭和40年代の「公設市場」のままだ。
▼「神戸市生涯学習センター」のベンチ横には掲示板があって、「西国街道」の
案内がしてある。
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http://www.kobe-sumai-machi.or.jp/matisen/3jinzai/sozai-saigokukaidou.html
「山陽道(西国街道)は、京都から国道171号沿いを進み、西宮から芦屋市の
打出まで来ると、内陸部を進む本街道(大名行列などが利用)と、海岸
沿いの浜街道(庶民が利用)に分かれる。現在の三宮駅のすぐ南西あたりで
再び合流し、西へと向かう」との説明がある。
元町商店街あたりを通り、JR神戸駅・湊川神社の前から元の職場のすぐ
南を通って、兵庫の柳原・蛭子神社の方に続いている。
▼退職してから、こんな掲示板の文面を立ち止まって読むようになった。
別段、「歴史散歩」をしようというワケではないが、自分が生きてきた
時間の長さを反転させると、明治のはじめ頃まで溯ることに驚く。
そして、これまで「早く過ぎ去ってほしかった時間」だったのに、いまでは
「いにしえからの時の流れ」に、懐かしさと親しみを感じるようになってきた、
ということか。
前々回とは、一本南の通りを、三宮まで歩いていく。
この「旧西国街道」は、日暮・吾妻町と旭・雲井町を南北に分けて走り、、
淡路交通の三宮「長距離バス乗り場」の前に続いている。
ダイエー三宮店、ジュンク堂に立ち寄り、「大正期」をテーマにした「本」を
探してみる。
板野潤治『日本近代史』を買う。
新書の棚に、勢古浩爾『結論で読む人生論』が文庫本になって、
草思社から出ていたので、ついでにこれも買う。
▼上の階の喫茶店で、二冊の「本」をパラパラ読みする。
勢古「本」は、これまで随分読んできた。彼は大分県出身で、私より2つ年下である。
ほぼ同年齢であり、そんな彼が今、何を考えてるか、彼とおしゃべりしている
ような感覚で、彼の言うことを聞くのが楽しみである。
いまさら「人生論」でもあるまいが、どんなことを言うのか、ページを
めくる。
「本書は古今東西の主要な人生論を総覧し、それに簡単な私注をほどこし、
終わりに、人生に関するわたしの卑見を述べたものである。よくある
人生論のダイジェスト本ではない。いわば人生論注解であり、人生論批評で
ある」
「大切なことは、『人生とはなにか』という毒にも薬にもならない一般人生論
ではない。『どういう人生を自分はよしとするのか』という、この身ひとつの
個別人生観である」
「人生論は一般であり、人生観は個別である。人生論は『価値』を論じ、人生観は
『意味』を論じる」
「それでも、執拗な疑問が残る。人生をこね回してつべこべ言うんじゃない、
という気分がある。はたして、人生は論じるに値するのか。論じてどこへいくのか」
▼『こういう男になりたい』『思想なんかいらない生活』『わたしを認めよ!』
『いやな世の中 <自分様の時代>』『まれに見るバカ』『日本人の遺書』
『最後の吉本隆明』『いつか見たしあわせ』『石原吉郎』『会社員の父から
息子へ』『不孝者の父母考』などの著書がある。
この「本」は、8年前に同じ出版社から刊行された。著者、58歳のときだ。
いま66歳で、最近では『定年後のリアル』という「本」も出した。
「著者紹介」には、<市井の人が生きていく中で、本当に意味ある言葉・こころの
芯に届く言葉を思考し、しずかに表現しつづけている>とある。
1988年、第7回「毎日21世紀賞」というのを受賞し、
ウイキペディアにも
載るようになった。
『自分をつくるための読書術』以来、もう15年以上の「付き合い」である。
少しずつこの人も年をとっているんだ、と思う。
▼ページを繰っていたら、ラ・ロシュフコーの箴言が引用されていた。
「われわれは生涯のさまざまな年齢に、全くの新参者としてたどり着く。
だから、多くの場合、いくら年をとっていても、その年齢では経験不足なの
である」
なるほど、と思った。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』の「献辞」は「子どもだったころの
レオン・ウェルト」に捧げられている。
理由は、「おとなは、だれも、はじめは子どもだった(しかし、そのことを
忘れずにいるおとなは、いくらもいない)」からだった。
しかし、年寄りもまた、はじめて年寄りになるのである。
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