●2014年02月15日 (土)
▼つげ義春はどこかで、「私は私小説がすきだ。ひとの暮らしの有様や
考え方・考えていることを窺い知るのが、楽しい」といった内容の文章を
書いていたと思う。
自身の卑小さや、醜さ、いやらしさ、など、ひとにはいえないことは、通常、
自身のこととして、赤裸々に「文章」になることはない。
その点「私小説」は、虚々実々、書く人自身のことが書いてあって、おもしろい
というのである。
私も、その意味で「私小説」が好きだ。
まして、「日記」「自伝」のたぐいで、ありのままの自分をさらけだしている
ものは、書いた人の息づかいや体臭なども伝わってくる。
つげ義春は、自身でも、『つげ義春日記』というのを書いた。
▼でも、そんな読み方は、どこか「窃視」「覗き見」的な心情もあり、
読む「たのしみ」は、ひそやかな「たのしみ」で「楽しみ」というより
「愉しみ」に近いような気がする。
▼そして、そんな事柄・秘め事について、「日記」に記し、「自伝」まで
書く人もいる。
だいたいが、「性」にまつわる話が多い。田村隆一訳による『わが秘密の生涯』や
啄木の『ローマ字日記』などが浮かぶが、あまりに赤裸々というか、深刻で
あるものは、文学的な価値はあっても、「愉」がもっているニュアンスの
「愉しみ」からは遠ざかっていくような気がする。
▼読んだ「本」の中で、「愉しみ」の範疇に入りそうなのには、こんな「本」が
あった。
▼でも、いま「日記を読む愉しみ」で書こうとしているのは、虚飾なく自身の
ことを書いているが、それは「赤裸々」とはちがった、もっと「真実」なもの
について書かかれた「日記」のことである。
その「日記」とは、『平生釟三郎日記』のことであるが、いま私が読みながら
感じている「よろこび」や「たのしみ」について、それを書いた「文章」がある。
『平生釟三郎日記』第6巻 附録 の、片野真佐子『日記を読む愉しみ』である。
つぎに、その「文章」を書き写したいと思っている。
(つづく)
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