●2013年01月23日(水) 天気不明
▼「■●▼」だけを書いた日記をいまごろつけている。
何を書こうとしていたか、メモをしておいた。
話題はまだ、宮崎行きのことである。
一般の観光地に向かうのと、宮崎に向かうのは
気分が異なる。
それは、目的が観光と法事のちがいによることもあるが、
それよりももっと、別な心理的な理由にあるようだ。
中学生くらいになると、親といっしょに歩くと「恥ずかしい」気分に
なるが、あれとよく似た感じだ。
親と歩く場合は、それをひとに見られるのが恥ずかしいのであるが、
宮崎と出会うのは、ひとが見ている事とは関係なく、自分で
「恥ずかしく」なる。
▼なにか「肉親的なもの」を宮崎の地に感じるようである。
「肉親的なもの」は、過去の記憶とも関係しているような
感じで、なかなか微妙なものがあり、そのニュアンスをうまく
表現できない。
宮崎で生まれそこで育った、もともと宮崎の人である妻は、
私のような感じ方をしていない。
だから、いっしょに通りを歩いても、彼女は「平気で」街中を歩くが
私には、それができない。
目にとまる風景の、どこそこから「気恥ずかしさ」みたいなものが
こころに動く。
▼橘通りを歩いていても、かつて小学校でいっしょに遊んだ友だちの
商店が、いまは、あったりなかったりする。
一丁目の橋詰めから、××呉服店、××書店、××金物店、××帽子店、
××食料品店、××薬局、××時計店、××鮨、××布団店、××食堂、
××燃料店、××惣菜屋、××文具店、××テント・・・
六丁目まで歩くだけでも、ずいぶんな思いをする。
「金城堂」や「日高」の菓子店や、「中メガネ」などの子供の頃の店を
見ると、いつ帰っても、ほっとする。
「一の字」の店や、「大銀の茶屋」の店に、妻といっしょに行ってみようか
と言っていたが、時間がなく、またの機会になってしまった。
▼一度だけ、宮崎に帰って暮らそうかと思ったことがある。
しかし、それはすぐ「無理なこと」だとわかった。
妻は、「わたしは宮崎にはもどらんよ。こっちの方がなんぼか自分に
あっている」という。
生活のテンポ、同じ会話のくりかえし、のろさ、知った人ばかりのこと、
彼女が嫌うものだが、わたしたちが帰省した折り、数人が集まって宴会を
開いてくれたそのとき、わたしも、「もう無理だ」と悟った。
宮崎をあと何度、訪れるのだうか。
法事のたび帰ったとしても、また毎年帰ったとしても、
それは十指に満たないかもしれない。
▼夜の宮崎は、西橘通り、黒迫通り、若草通りの交わるあたりは、
神戸よりも活況を呈していた。
妻と義妹と夜の街を散策したが、あまりの人の多さに、妻は人だまりの
若者に、「だれか芸能人が来ているの?」と訊いた。
「いいえ、みんなこのあたりで待ち合わせをするんです」との返事。
もう夜、11時である。
ホテルの向かうタクシーの運転手に、いつもこんな風なのか
聞いた。
「いゃ〜、もっと多いですよ。きょうはまだ、タクシーが客まちで
並んでいるでしょ、いつもはこんなにタクシーは並んでおらんですよ」
「西橘通りあたりは、もう朝までですよ」と運転手は応えた。
▼空港で土産物を買い、まだ時間があるので、となりの売店の本屋に寄る。
宮崎の名残りみたいな気分で、店内の棚をひやかし半分で、ゆっくり
見て歩く。
去年の古事記1300年にちなんだ、「日向神話」の特設コーナーが
あり、空港売店に普通は置かない、「本」もある。
これも伊丹の空港より、品揃えが格段にいい。
棚に、ちくま文庫があり、中井久夫『「伝える」ことと「伝わる」こと』が
あった。
これも宮崎の名残りか、と思って「本」を買った。
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