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2012年12月19日00:26

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■子規 十七日の月

●2012年12月19日 (水)  未明

 ▼きょう図書館に行って来た。
  中江兆民『一年有半 続一年有半』
  復本一郎『余は、交際を好む者なり  正岡子規と十人の俳士』
  長谷川櫂『子規の宇宙』
  今泉恂之介『子規は何を葬ったのか  空白の俳句史百年』
  四冊を借りた。

 ▼きのう書いた幾つかの疑問のうち、
  『仰臥漫録 二』の中断のことでわかったことがある。

  『漫録 二』の日付は、「十月十四日誰も参り申さず」の一行の日記ではじまり、
  「十月二十九日 曇」と、日付と天気を書いただけの日記でおわり、
  その次の日付は、翌年の明治三十五年十日に飛ぶ。

 ▼なぜ、飛ぶのか。
  そして、「十月二十七日」の日記である。

   十月二十七日 曇
    明日は余の誕生日にあたる(旧暦九月十七日)を今日に繰り上げ昼飯に
    岡野の料理二人前を取り寄せ家内三人にて食う。
    これは例の財布の中よりものにていささか平生看護の労に酬いんと
    するなり。
    けだしまた余の誕生日の祝いおさめなるべし。(後略)

 ▼「明日は余の誕生日」と子規は云っているが、これがわからなかった。

  子規は「明治」の前年、1867年10月14日(慶応3年9月17日)に
  生まれた。、たしかに生まれたのは、旧暦では「9月17日」である。
  しかし、誕生日は「10月14日」ではないか。

  私は、よく利用する『暦のページ』で、
  「翌日」つまり「明治34年(1901年)10月28日」検索した。

   
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  10月28日は、旧暦9月17日である。


 ▼太政官布告で、「明治5年(1872年)12月3日」を「明治6年(1873年)1月1日」に
  改めるまで、日付は旧暦であった。
   
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 ▼子規は、満5歳を迎える明治5年まで、
  「9月17日」を誕生日として祝って来た。

  そして、
  それ以降も、旧暦の「9月17日」を満年齢と関係なく、
  「誕生日」として祝っていたのだ。


 ▼明治33年(1900年)の旧暦「9月17日」は、「11月8日」
   
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 ▼明治34年(1901年)の旧暦「9月17日」は「10月28日」
   
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 ▼明治35年(1902年)の旧暦「9月17日」は「10月18日」
   
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  となる。


 ▼この明治34年10月27日の日記にある
  「例の財布の中よりでたるもの」とは、

  10月25日の日記に、
   『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、・・・
   しかしいずれも生命を売物にしたるは卑し
  と書き、
   「余も最早飯が食える間の長らざるを思い、今の内にうまい物でも
    食いたいという野心頻りに起りしかど・・・・内の者にも命じかぬる
    次第月々の小使い銭にわかにほしくなり・・・・さまこうさま考えた
    末ついに虚子より二十円借りることとなり・・・・・」
  というカネであろう。


 ▼この日の少し前、
  10月15日には「松山伯父へ向け手紙一通したため」、
  10月20日には「加藤叔父来らるる」

  カネの話はでなかったのか。
  10月20日には午後虚子も来た。

 ▼10月27日の日記には、
  「けだしまた余の誕生日の祝いおさめなるべし」とした
  会席膳の五品の献立を記している。

  そして、去年のことを思い出す。
  「去年の誕生日には御馳走の食いおさめをやるつもりで、
   碧四虚鼠の四人を招いた」

  今年は、誰も招かず、家内三人で料理二人前。

 ▼翌年、明治35年の誕生日は、
  「9月17日」、新暦「10月18日」のはずだった。

  しかし、それを繰り上げ新暦「9月17日」に行った。

  子規の身体は弱っていた。旧暦の誕生日を待てなかった。

 ▼この日は赤飯を炊き、隣の陸羯南の家にも配った。

  この日の新聞『日本』の「病牀六尺」欄には、
  長崎の狂歌師・芳菲山人からの手紙を、そのまま書き写し、
  それが掲載された。

  その「病牀六尺」百二十七に掲載された手紙には、
  芳菲山人の狂歌が添えられていた。

   「俳病の夢みるならんほととぎす拷問などに誰がかけたか 」

 
 ▼翌9月18日。
  子規は、この日、朝から容体がおかしかった。

  午前10時すぎ、碧梧桐がきた。子規の様子を見て、
  妹の律に「虚子は呼んだか」と尋ねた。
  まだ、と答えた律の声が子規に聞こえた。

  「高浜も呼びにおやりや」と小さな声で言った。

  11時を過ぎたころ、碧梧桐と律が介添えして、
  子規の前に画板を置き、墨汁をふくませた筆を
 、子規の手にもたせた。


  子規は、紙のまんなかに

      糸瓜(へちま)咲いて

  と、書いて、墨をついで渡すと、こんどは少し下げて
      
        痰(たん)のつまりし

  まで、書いた。 そして、同じ高さぐらいところに

        仏かな

  と書いた。

 
 ▼子規はいったん投げるように筆をおき、咳をして痰を取ってもらうと
  先に書いた句の左に

     痰一斗糸瓜の水も間にあわず

  と書いて筆を置き、またしばらく休んでは、こんどは右の余白に


     をととひのへちまの水も取らざりき

  と書き、筆を置くのも大儀そうにしていた。


 ▼この三句をしたためて、日付が替わった午前零時50分ごろ
  子規は息を引き取った。
  旧暦では、夜の明ける前の、まだ八月十七日の夜更けである。

  虚子は、鼠骨に知らせるべく、下駄の音を響かせ 
  寝静まった夜更けの町を走った。

  空にはひと月早い八月の、生まれた日と同じ「十七夜」の月が、
  ものすごいほどに輝いていた。

     子規逝くや十七日の月明に

  虚子の口を突いて出た。


 ▼借りて来た「本」、家にあった「本」
  それらをまとめると、こんな様子だった。

 「九月十七日」の疑問は、ひとつ解けた。


「明治35年9月の月齢カレンダー」
    
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         左端が「日付」              右端が「月齢」
           明治35年(1902年) 9月19日(旧暦8月17日) 午前1時ころの「月」


  
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