●2012年12月18日(火) 未明 0:38
▼自分用のメモ書きも、14回になって
「材料も大方分かり申し候」という
ところまでいきつただろうか。
月曜日は休館日であり、明日
大倉山の図書館に寄ってみようと思う。
評論のためなら、必須の資料であるが
読む「本」としては、購入するまでもない
「本」かも知れない。
▼『一年有半』がどんな内容の「本」であれ、
明治34年9月頃に、兆民が本を出版するとなれば、
子規は、その「本」を読みたかったに違いない。
兆民の執筆開始は、山田風太郎『人間臨終図鑑』では
「彼は医者に、あとどれくらい生きられるか、正直に教えてくれ、
医者は言いにくそうに、一年半くらいと言った。宿に帰って、
彼は書いた『一年半、若し短といわんとせば、十年も短なり』」と
なっており、診察を受けた当日すぐのように読める。
出版予告のようなものは、新聞や雑誌に載ったのか。
出版後は、広告はでたであろう。
そして、そのうち「書評」が出た。
▼叔父・加藤拓川は、兆民の仏学舎でフランス語や漢文を学んでいるし、
子規の後見人で、子規を東京に送り出してくれた。
この叔父・拓川は、子規の生涯の恩人となる、陸 羯南(新聞「日本」)をも
紹介している。
ひょっとして叔父の紹介で、兆民と面識があったかも知れないし、
面識がなくとも、兆民はすでに名をなしていた。
兆民は土佐藩の足軽、自分は松山藩士の子。歳は二〇ほど違っていても、
境遇は似ていた。
(子規は、漱石に注意を受けたように「士農工商」の身分意識を強くもっていた。
したがって、足軽の子である兆民より、藩士の子である自分の方が、本来なら
「身分は上」と、おそらく思っていただろう、と考えられる)
若い頃、政治の世界にも関心があった子規は、いまや55歳になろうと
している兆民をどのように思っていたのだろう。
聞けば、兆民も落ちぶれ、苦労しているようであった。
そのくらいのことは、知っていたかもしれない。
▼出版された『一年有半』に、関心がなかろうはずはない。
たとえ売れない「本」であったとしても、子規は
兆民が『一年有半』を読みたく思ったろう。
それが「ベストセラー」となれば、やはり
「材料」を集めるであろう。
▼ところで、明治34年1月16日から7月2日まで、新聞「日本」に
『墨汁一滴』を、途中4日休んだだけで、164回にわたって
書き継いできた子規は、それから2ヶ月後の、
9月2日、発表しない手控えとしての日記『仰臥漫録』を、
書きはじめた。
しかし、どうして書く気になったのか。
明治34年9月2日とは、子規にはどんな時期あたるのか。
『仰臥漫録』を書きはじめた子規の心理と、このときの子規の
置かれた状況に目がいく。
▼また、10月13日に、千枚通しの錐と小刀の絵を描き、その上に
「古白曰来」と書きつけ、それでいったん、『仰臥漫録』を綴じ、
あらたに翌日の10月14日から『仰臥漫録 二』として綴られている
のはどうしてだろう。
▼そして、『仰臥漫録 二』は、10月14日に書きはじめ、満34歳の誕生日の
祝いを1日くりあげ、10月27日に岡野の料理を取り寄せ、家族3人で食べ、
その翌日には料理の残りを全部煮て食べ、10月29日は「十月二十九日 曇」
とだけ書いて、あとは空白になるのは、なぜだろう。
▼そのあと、ずっと書かずに、次に書いたたのは、日付でいうと
翌年・明治35年3月10日。
約5ヶ月も空白があるのは、なぜだろう。
空白の間、子規は何をしていのだろうか。
何も書かなかったのだろうか。
▼明治35年4月20日「ホトトギス」(第5巻第7号)に、
子規の『病牀苦語』が掲載されている。
原稿を書いたのは3月10日より、前・後?
▼それ以降、『仰臥漫録 二』は、次のような形で書いている。
3月10日 〜 3月12日 (日記のなき日は病勢つのりしときなり)
6月20日 〜 7月29日 (「麻痺剤服用日記」これより以前は記さず)
この3月と6月の記載の途中、の5月5日から、新聞「日本」で、
『病牀六尺』の連載が始まる。
▼5月5日付 〜 9月17日付 (『(病牀六尺』1回〜127回、新聞「日本」)
9月17日付の原稿は、2日前の9月15日頃に書いたのか。
9月17日 最後の『病牀六尺』127回が掲載された。
9月19日 午前1時ころ没した。
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