●2012年11月25日(日) 晴れ
▼幸田文に『手抜き』という文章がある。
女はみな和服、男も半分以上は和服だった当時は、
裁縫は学校の教科でもあった。
しかし、手先が不器用な文さんは成績もよくなく、
教師の説明や実地においても、あとひとつ呑みこめないものがあった。
幸田家では、文さんの母がリウマチを患っていたため、
母は自分のものを縫うのがやっとで、父・露伴のものは仕立てに出すが、
文さんや弟の分は、文さんが縫い直しをやらなければならなかった。
それで裁縫は、学校の成績が悪いこととは別に、テキパキとする
必要があった。
文さんが十代の娘のころ、というから
大正はじめの頃の話であろう。
▼文さんは、学校では望みえない「お師匠さんと相対ずくの
実地で教わりたい」と願い出て、裁縫の稽古に半年ほど通ったそうだ。
お師匠さんは、中年すぎの未亡人で「人柄も針も、少し頑固なくらい」
しっかりしている、といわれる人だった。
噂ほどきびしい教え方はしなかったが、「基本は何度でも教えてあげるが、
上手下手は習うほうの素質と心掛けだ」と突き放した言い方をする。
また、「並みの頭と手を持ってる人なら、そう苦労せずに並みの仕事ができる
ようになる。しかし、たまに、頭ではちゃんとわかっているのに、気の毒なことに
肝心の手がひどく不器用な人もいて、こういう人に、針で暮らしていきたい、
などと言われると、胸を突かれて思いまどってしまう」などと、思いやり深いことも
言った。
▼お師匠さんは、教えるとき、自分のものは縫わない、全部よその仕事を
縫って実地に教えた。こんなことも「頑固」と煙たがられていたのだが、ある日、
「きょうは私は自分の着物を縫う。急な必要が生じたので、全く間に合わせの
ひどい手抜きで、早仕立てをする。こういう仕事は見せたくないが、かくして
こそこそするつもりはない。ところで、人はどうしたことか、この手抜きの
早仕事に大変興味をもっていて、いつもの何倍もの熱心さで見たがる」
「わるいことや胡魔化し仕事は、人の気をひく。自分もまねてみたくなるし、
そのうち胡魔化しの手があがったりして、当人は得意になる。この傾きは誰にも
あるが、決して身のためにはならない。見るなと言っても無理だろうが、
どうか今日までの稽古を思い返して、迂闊な気持ちにならないように」と
注意した。
▼そのときの着物は、まるで男物のような地味な色合いの初夏の単衣であった。
しかし、文さんはその早業を見る勇気がなかったという。それは自分の心を
見透かされたように思ったからだ。
文さんは、父の露伴から、拭き掃き、ご飯ごしらえを躾けられた。
手先の不器用な娘の不憫を思い、駄目なら駄目で仕方ないが、
せめて衣食住のことだけでも人並みに教えておかないと、それは本人の不幸だ
と思ってのことだろうと、露伴のことを書いているが、
いくら不器用ではあっても、「暫くたつうちに、いくらなんでも多少はおぼえてきて、
拭くも掃くも、一通りできるようになる。そして誰に教えられるでもなく、手抜きも
覚える」
「手抜きを知り、それが誰にも発見されなかったとなると、心とみに楽しく、
見せかけ上手の腕はますます上達して、我ながら自惚れるほどになる。
よくないことは、どうしてあのように気分がいいのでしょう」
文さんは、
「お前はこのごろ役に立つようになった。気のつかい方、手足の運びも、
はしこくなったが、そういう一時しのぎの取り繕い掃除は、もういい加減に
しておきなさい。暮らしのうちには、間に合わせの才覚も必要だし、それは
ひとつの能力でもある。しかし、おおよそ能力、技術、心ざまは、すべて曲直もあれば、
品格の上下もある。間に合わなければ、あからさまに詫びて座敷に客を招じ入れる
ことを心得たほうがよかろう」と、ズバッと露伴にやられたときのことを思い出していた。
▼そして、文さんはこう書いている。
「仕立屋のお師匠さんの取った態度は印象に深くて、折りに触れて思い出します。
私は気圧されて、その手抜き技術を見ることができませんでしたが、いまだに
見ておくべきだったか、よくわかりません。こういう席に居合わせると、相手の
性根が据わっているだけに、こちらの性根もひとりでに問われる形になります。
見なかった私は弱かったと思います」
「もう六十年も前のことです。家事修業がすこしできるようになった時の
ケチな手抜きのいやらしさですが、お師匠さんのようなプロの手抜きは、
きっとさぞ見事で、大胆かつ堂々たるものであったろうと想像します。
あれは、めったにない場合であり、喰らい付いても見るべきであり、
そうすれば、お師匠さんからもっと解き明かされることもあっただろうに、
今なら逃さないと思います」
▼「このごろの私の家事ときたら、それはもうお話にもなりません。
掃除も食事ごしらえも、九割五分が手抜き同様の間に合わせばかりで、
まともな部分は五分というものでしょうか。なんともだらしない次第です。
ですが、こう衰えると、これもまた止むを得ないと自らを慰めます」
『手抜き』が書かれたのは、1979年(昭和54年)。明治37年生まれの文さんは、
七十五歳になるころである。
いま、私の部屋はカーテンが取り払われ、出窓からは冬日の晴れた高取山が
見える。
北の窓も開け放たれ、うすら寒いが、むかしは家の中でもこんな寒さだったと
思う。
狭い部屋が広々として思える。
妻は、きょうが休みでカーテンの洗濯をしている。
ログインしてコメントを確認・投稿する