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2006年07月12日12:08

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●身辺雑記Ⅱ（11）/■「きりぎりす」（完）

■「きりぎりす」（完）

　●筑摩選書25として発刊された、太宰治（著）「きりぎりす」を
　　私が購入したのは、昭和４１年５月１１日のことで、これを
　　１００円で垂水の古本屋「加藤書店」で買っている。

　　　　　　　　　

　　この「本」が刊行された昭和２４年（太宰の死の翌年）から
　　１７年のちの、この「本」を入手した昭和４１年とは、私が大学３年の
　　ときで、私にはすでに結婚したい、「意中の人」がいた。

　　そして、短編「きりぎりす」に出てくる画家の妻と、私の
　　「意中の人」とを重ね合わせるようにして、私は、この小説を
　　読んだ覚えがある。

　●ところで、この表題作「きりぎりす」は、ある画家の妻が、
　　夫へ宛てた手紙であり、妻が夫への決別の思いを綴ったもので、
　　全篇が手紙文という形式をとっている。

　　ページ数にして２２ページで、ごくごく短いものである。
　　もちろん、実際にこんな手紙をもらったら読むのに１時間は
　　かかるだろうし、便箋に綴ればおそらく普通の封筒には入りきるまい。

　　しかし、実際にこんな手紙がありそうな感じで、太宰は読者をして
　　ごく自然に「物語の世界」へ一挙に引きずり込む。

　●「きりぎりす」の書き出しは、こうである。

　　　　
　　　　「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついてゐました。
　　　　　私にも、いけない所が、あるのかも知れません。
　　　　　けれども、私は、私のどこが、いけないのか、わからないの。
　　　　　私も、もう二十四です。このとしになっては、どこが
　　　　　いけないと言はれても、私には、もう直す事が出来ません。
　　　　　いちど死んで、キリスト様のやうに復活でもしない事には、
　　　　　なほりません。自分から死ぬといふ事は、一ばんの
　　　　　罪悪のやうな気も致しますから、私は、あなたと、
　　　　　おわかれして私の正しいと思ふ生きかたで、しばらく
　　　　　生きて努めてみたいと思ひます」

　●うまい書き出しである。太宰ならではの、平易でいて、
　　かつ、高等に技巧的な文章である。

　　太宰の語り口は、「葉」のような、アフォリズムがあり、難解で
　　飛躍的思考についていけないような文章でも、ことばが平易で
　　みずみずしく、年若くしても読めるような「青春の文体」で
　　書かれている。

　●「きりぎりす」の妻にも、夫にも、小説中では、名前がない。
　　画家の妻は、十九の春に、親の反対があったにもかかわらず、
　　また、ほかに、帝大の法科出の外交官志望のおぼっちゃんや、
　　父の会社の三十歳ちかくの、技師の縁談があったにもかかわらず、
　　ほとんど、この身ひとつで、この夫のもとへきた。

　　それは、この人以外に自分の夫となる人はいない、と思ったからだ。

　　だから、こう書かれている。

　　　　「あの頃も、いまも、私は、あなた以外の人と結婚する気は、
　　　　　少しもありません」

　　　　「骨董屋の但馬さんが、父の会社へ画を売りに来て、
　　　　　れいのお喋りを、さんざんした揚句の果てに、この
　　　　　画の作者は、いまにきっと、ものになります。どうです、
　　　　　お嬢さんを等と不謹慎な冗談を言ひ出して、父は、
　　　　　いい加減に聞き流し、とにかく画だけは買って会社の
　　　　　応接室にの壁に掛けて置いたら、二、三日して、また
　　　　　但馬さんやって来て、こんどは本気に申し込んだといふ
　　　　　ぢゃありませんか」

　　　　「乱暴だわ。お使者の但馬さんも但馬さんなら、その
　　　　　但馬さんにそんな事を頼む男も男だと、父も母も、
　　　　　呆れてゐました。
　　　　　でも、あとで、あなたにお伺ひして、それは、あなたの
　　　　　全然ご存じなかった事で、すべては但馬さんの忠義な
　　　　　一存からだったという事が、わかりました」

　　　　　　　・・・・

　　　　「あの時、私は但馬さんの無鉄砲な申し込みの話を聞いて、
　　　　　少し驚きながらも、ふっと、あなたにお逢ひしてみたく
　　　　　なりました。なんだか、とても嬉しかったの」

　　　　「私は、或る日こっそり父の会社に、あなたの画を見に
　　　　　行きました。
　　　　　その時のことを、あなたにお話し申したかしら」

　　　　「私は父に用事のある振りをして応接室にはいり、ひとりで、
　　　　　つくづくあなたの画を見ました」

　　　　「あの日は、とても寒かった。火の気のない、広い応接間の
　　　　　隅に、ぶるぶる震へながら立って、あなたの画を見て
　　　　　ゐました。
　　　　　あれは、小さい庭と、日当たりのいい縁側の画でした。
　　　　　縁側には誰も坐ってゐないで、白い座布団だけがひとつ
　　　　　置かれてゐました。青と黄色と、白だけの画でした。
　　　　　見てゐるうちに、私は、もっとひどく、立って居られない
　　　　　くらいに震へて来ました」

　　　　「この画は、私でなければ、わからないのだと思ひました。
　　　　　・・・真面目に申し上げてゐるのですから、お笑ひになっては
　　　　　いけません。私は、あの画を見てから、二、三日、
　　　　　夜も昼も、からだが震へてなりませんでした」

　　　　「どうしても、あなたのところへ、お嫁に行かなければ、
　　　　　と思ひました。蓮っ葉な事で、からだが燃えるように
　　　　　恥づかしく思ひましたが、私は母にお願ひしました」

　●そういうことがあって、私は来たのだ。
　　母はとてもいやな顔をしたが、それでも、それは覚悟していたことで
　　あきらめず、両親の意見にも耳をかさず、ひとつき、すねて、
　　とうとう私が勝って、ここへ来たのだ。

　　　　「但馬さんと相談して、私は、ほとんど身一つで、あなたの
　　　　　ところへ参りました。淀橋のアパートで暮らした二箇年ほど、
　　　　　私にとって楽しい月日は、ありませんでした。
　　　　　毎日毎日、あすの計画で胸がいっぱいでした。あなたは、
　　　　　展覧会にも、大家の名前にも、てんで無関心で、勝手な
　　　　　画ばかり描いてゐました。貧乏になればなるほど、
　　　　　私はぞくぞく、へんに嬉しくて、質屋にも、古本屋にも、
　　　　　遠い思い出の故郷のやうな懐かしさを感じました。

　　　　　お金が本当に何もなくなった時には、自分のありったけの
　　　　　力を、試すことが出来て、とても張り合ひがありました。
　　　　　だって、お金のない時の食事ほど楽しくて、おいしいの
　　　　　ですもの」

　●なのに、どうしたことか。
　　はじめのうちはよかった。ほんとうに、よかった。
　　ところが画が売れ出す。それは、嬉しいことだった。

　　なのに、画が売れ出したら、あなたも変わった。

　　　　「私は、あなたのご出世を憎んでゐるのではございません。
　　　　　あなたの、不思議なほどに哀しい画が、日一日と多くの
　　　　　人に愛されるのを知って、私は神様に毎夜お礼を言ひ
　　　　　ました。泣くほど嬉しく思ひました。

　　　　　　　　・・・

　　　　　
　　　　　あなたのやうな、口下手な、乱暴なおかたは、
　　　　　（ごめんなさい）お金にもならないし、有名になど
　　　　　決してなれるものでないと私は、思ってゐました。
　　　　　けれども、それは、見せかけだったのね。どうして、
　　　　　どうして」

　　　　　「但馬さんが個展の相談を持って来られた時から、
　　　　　　あなたは、何だか、おしゃれになりました。
　　　　　　まづ、歯医者へ通ひはじめました。あなたは虫歯が
　　　　　　多くて、お笑ひになると、まるでおぢいさんのやうに
　　　　　　見えましたが、けれどもあなたは、ちっとも気に
　　　　　　なさらず、私が歯医者へおいでになるやうにおすすめ
　　　　　　しても、いいよ、歯がみんな、なくなりぁ総入れ歯に
　　　　　　するんだ、金歯を光らせて女の子に好かれたって
　　　　　　仕様がない、などと冗談ばかりおっしゃって、一向に
　　　　　　歯のお手入れをなさらなかったのに、どういふ風の
　　　　　　吹き回しか、お仕事の合間、合間に、ちょいちょい
　　　　　　出かけて行っては、一本二本と、金歯を光らせて
　　　　　　お帰りになるようになりました」

　　　
　●このようにして、あなたは変わっていった。

　　おしゃれになり、お喋りにもなった。人の陰口を言い、お追従も
　　言うようになった。
　　一番ひどく変化したのは、お金に対する執着だった。
　　お金には、あれほど無頓着だったあなたは、お金ことを気にしだした。
　　あるときなんか、私が貯金帳を入れてある書棚の引き出しの
　　鍵をかけるのを忘れていたら、それを見つけて、あなたは
　　しんから不機嫌に、困るね、と言った。

　　嘘もつくようになった。そして画も変わった。

　●小説では、引用した「書き出し」から、ここまでに引用したような
　　ことが、連綿と書き綴られている。

　　そして、画家の妻、私は思うのだ。

　　　　「私には、あなたが、こはいのです。きっとこの世では
　　　　　あなたの生き方のほうが正しいのかも知れません。

　　　　　けれども、わたしには、それではとても生きて行けそうも
　　　　　ありません」

　　　　「ああ、あなたは早く躓（つまづ）いたら、いいのだ。
　　　　　私は、あの夜、早く休みました。電気を消して、
　　　　　ひとりで仰向けに寝ていると、背筋の下で、こほろぎが
　　　　　懸命に鳴いてゐるので、なんだか私の背骨の中で小さい
　　　　　きりぎりすが、鳴いてゐるような気がするのでした。
　　　　　この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって
　　　　　生きて行かうと思ひました」

　●「きりぎりす」を、手紙を書いた妻の立場で読むか、それとも
　　手紙を送られた夫の立場で読むか、立場の違いによって、
　　読みながら、思うことも違ってくる。

　　わたしは、「意中の人」を思い描きながら、妻の視点で読んでいた。

　　私の妻になる人は、この「きりぎりす」の妻のような人だ。

　　
　　これを読んで三年後、私は働き始めた最初の年に、その
　　「意中の人」と結婚した。

　　世界中に女の人は大勢いる。その中で、あなたが一番美しく
　　優れ、立派な人だというのではない。
　　しかし、私は、あなたが、他の誰よりも好きだ。
　　あなたは、世界の中で、私にもっともふさわしい人だ。

　　そんな意味のことを私は言ったようだ。

　　「意中の人」は、私からの、数十通にも及ぶラブレターを
　　全部、無視した。一度も返事を書かなかった。

　　にも拘わらず、あきらめ悪く、ただ「好きだ」を言い続ける私に
　　根負けした。そんなに結婚を頼まれれば、これを無碍に断る
　　こともできない。

　　「ひょっとしたら、この人には、私しかいないのかも知れない」。

　　そう思って「意中の人」は、どこかで、しようがないと諦めながら
　　私と結婚することにした。

　　　

　●二人が結婚して住んだのは、西宮の四畳半のアパートだった。
　　四畳半のアパート暮らしは、「きりぎりす」と同じだったが
　　そこでの生活や、その後の貧乏な暮らしは、「きりぎりす」の
　　二箇年よりずっと長く、それからもしばらの間、続いた。

■参照

　●関係「アルバム」
　　・「太宰治を読んだころ」
　●関係「コミョニティ」
　　・「時代とは人々の連なりのこと」　
　　・トピック：「だ / 太宰治」　
　●関係「日記」
　　・「きりぎりす」
　　・「きりぎりす（続）」
　　・「きりぎりす（続々）」

■案内
　　・日記/「Home」案内

　　

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