■「整理・整頓」
●妻は、さっき帰ってきて、また
あわてて出かけた。
舞子ビラでシャンソンの発表会があって、
そのときの衣装をいったん、家に持って帰り、
再び、二次会に出かけたのだ。
「ちゃんと食べてるかネ?
おぉ、食ってるじゃないか!
それじゃ、ちょっと行ってくるワ!」
友達の車が外で待っているので、用件を済ませると
妻は、そそくさと出て行った。
「帰りは、9時ごろになると思うけど
もし、遅くなるようだったら、
途中で抜けて、帰ってくるから・・」
●きのうも早く寝た。そしたら、おとといと
同じように、夜の明ける前に目が覚めた。
それで、新設コミに
「キャサリン」さんのことなど
書いて、再び寝た。
きょうは、我が家は朝から忙しかった。
博多から長男が、出張で大阪に出向くので
今晩(26日)は我が家に泊まる、という
そんな電話が三四日前にかかってきた。
いつもは、夫婦二人だから、まぁ適当に暮らしている。
片付けや掃除だって、私がやらないから
まぁ、適当になっている。
●私は三人の子供たちに、「しつけ」というのが
できなかった。前にも書いたように、自分自身が悩んで
頭をぶつけ、迷っているのに、子供たちに「価値観」みたいな
ものを「しつける」ことができなかった。
しかし、「整理・整頓」「片付け」だけは、やかましく
言った。それは、私が私の父から「しつけ」られて、
唯一、よかった、と思えるものだったから、私も
「片付けなさい」と、よく子供を叱った。
しかし、しつければ、すぐよく身につくか、といえば
なかなか、そーは、いかない。
●三人の子供に同じように「しつけ」たが、長男は
もともと性に合っていたのか、整理・整頓から、より
進んで「シンプル・ライフ」の暮らしぶりで、不要なものは
一切、買わないような大人になった。
(私とは、大違いだ!!)
次男は、しつけた当時の子供の頃は、本は破るは
おもちゃは壊すは、整理・整頓どころか、
破壊を旨とするような子だった。
しかし、成長すると、顔が私とどことなく似てきて
家では、片付けるようになったと、次男の嫁さんから
聞く。
娘のところは、子供が三人いて、一番上は中学二年で
片付けようとしても、道具が多くて、狭い家は片付かない。
それでも、一生懸命、片付けているようだ。
●で、親の我が家であるが、私が、いまはもう
ほとんど片付けない。
退職してから、捨てるものは捨てて、と思いつつ
少しもはかどっていない。
根に、どーでもいい、と思うところがあって、なかなか
整理・整頓をしない。
●長男は帰省し、我が家にくると、ぐるっと家の中を見渡す。
狭い家だから、見渡すほどのことはないけれど、何か
変化はないかと、部屋の中をぐるっと見る。
別に、長男は家の中をチェックしているわけではないし
たとえ片付いていなくとも、それで何かを言うわけではないが、
妻は、長男が帰ってくるとなると、大慌てになる。
長男は独身で、ひとりだから、来たって別にどーって
わけないと思うが、妻は、急いで大掃除する。
(ああ、いま、長男から電話。三宮から・・)
(晩飯を、下のりファーレ妙法寺で、長男と食べてきます)
(また、あとで・・・)
●いま、リファーレ妙法寺(居酒屋)から、妻とも合流し、
帰ってきた。
話が中断したが、「整理・整頓」のこと。
いま、振り返ってみると「整理・整頓」は、私にとっては
役立ち、いまでこそ、「整理・整頓」はしなけれども
仕事や生活や考えることをする上で、「整理・整頓」は私の
「基礎学力」というか、私を支えるための「基礎教養」というか
大きな力を発揮したように思う。
それは、効果があるという意味では、私にとって「価値」ある
ものだった。しかし、それはある「価値観」というものでは
ないような気がしている。
もし、「整理・整頓」ということが、ある固定され具体的な
「価値観」であれば、私は子供たちに、あれほどしつこく
いわなかっただろう。
「価値観」をも作り出すような、もっと基礎的な力として
「整理・整頓」のことを捉えていたのだと思う。
●もちろん、「整理・整頓」をあんなにやかましく言わなくても
「整理・整頓」する子は「整理・整頓」するようになり、
しない子は、しない、という話なのかもしれない。
そして、「整理・整頓」が唯一のものであるはずはなく、
ほかの何か、でもよかったはずだ。
●長男が帰ってくることで、そんなことを私は考え、
また、ひさしぶりに私を訪れてくれた「キャサリン」さんの
ことを思い出し、それに関係する
「」(カギかっこ)のことを
書いた。
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