mixiユーザー(id:1040600)

2009年07月22日19:40

8 view

●うみうし独語(415)/■『狂人日記』 (7)

■『狂人日記』 (7)

 ●7月22日(水)  曇り、日蝕

  帰り、湊川公園駅の地下道に入る手前で、私の前を
  映画館がある反対側の坂になった舗道から、こちらの道路に向って
  下りて来る、七十近い、私より四、五歳年寄りの婦人がいた。

  ガードレールに右手を添え、左手で杖をついて
  坂になった道をゆっくり下っていた。

  何気なく見ていた。

  

 ●私はときどき歩いているときに、靴の爪先が道路にひっかかり
  前につんのめりそうになることがある。
  頻繁ではないが、ときどきある。

  朝、出勤のときのこともあるし、帰りのときになることもある。


  地震の時、地面が褶曲して盛り上がり、そのとき出来た僅かな隆起は
  いまも修復されていないため、舗道が少しだけスロープ状態になっている
  個所がある。 そこで足をとられる。

  まだ転んだことはないが、これまで蹴つまづくことは何度かあったし、
  用心はしているが、何かの時に、これからもつまづいたりするだろうと思っている。



 ●要は、歩くとき私の脚がちゃんと上がっていないのと、
  歩き方が、脚の筋肉の衰えとともに、踵よりも爪先が
  先に地面につくような感じになった。

  そのことに気づいたのは、還暦前後だったろうか。
  しかし、前につんのめりそうになっても
  自分が杖をつくことを想像したことはなかった。

  杖をついている老人を、それから見たことがなかったわけではないのに
  きょう、どうしてか、坂を下って私の前へ下りてくる婦人を見て、
  ふと、「自分も杖をつくのだろうか」と不思議な感じで思った。



 ●よくわからないが、これも『狂人日記』を読んだ影響が一部にあらわれて
  いるかもしれない。
  
  その婦人に同情したわけでも、また自分が杖をつかないでいい身の上を
  ありがく思ったのでもない。

  また、杖をつかなでいいように、これからは散歩でもして脚を鍛えよう
  などと思ったのでもない。 こんな健康志向は私から最も遠い。


  なのに、なぜ杖をつく婦人に目がとまったのか。

  彼女は、杖をつく反対の手で、ガードレールをさするようにして下っていた。
  ガードレールに触っている彼女の右手の感触が、私に伝わって来る
  ような気がした。

 

 ●「理屈ともちがう。現実ともちがう。実感というものがある。」

  その自分の「実感」だけを頼りとして生きている男がいる。



  納得できないまま、それを現実として月日を送る。
  そうやらねば生きていけなので、無理に呑みこむものの、
  けっして納得していないので、歳月がたっても微動もしないで
  喉元に「実感」としてひっかかっている。

  そして、
  理屈とも関係ないし、現実とも一致しているわけでない「実感」というヤツは
  ただそうやって閉鎖しておくより仕方がない。

  『狂人日記』の男はそのように思う。



 ●ガードレールを手摺にして、ゆっくり下りてくる婦人が果たしてどんな考えをして
  いるか、私はわからない。
  しかし、「脚が不自由になる」ということは、いま彼女が杖をつき、
  ガードレールを支えにして、そろうり、そろうり道を下るという、
  そういうときの、喉元につかえる不自由さの「実感」のことかと思ったりした。

  
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する