■『狂人日記』 (7)
●7月22日(水) 曇り、日蝕
帰り、湊川公園駅の地下道に入る手前で、私の前を
映画館がある反対側の坂になった舗道から、こちらの道路に向って
下りて来る、七十近い、私より四、五歳年寄りの婦人がいた。
ガードレールに右手を添え、左手で杖をついて
坂になった道をゆっくり下っていた。
何気なく見ていた。
●私はときどき歩いているときに、靴の爪先が道路にひっかかり
前につんのめりそうになることがある。
頻繁ではないが、ときどきある。
朝、出勤のときのこともあるし、帰りのときになることもある。
地震の時、地面が褶曲して盛り上がり、そのとき出来た僅かな隆起は
いまも修復されていないため、舗道が少しだけスロープ状態になっている
個所がある。 そこで足をとられる。
まだ転んだことはないが、これまで蹴つまづくことは何度かあったし、
用心はしているが、何かの時に、これからもつまづいたりするだろうと思っている。
●要は、歩くとき私の脚がちゃんと上がっていないのと、
歩き方が、脚の筋肉の衰えとともに、踵よりも爪先が
先に地面につくような感じになった。
そのことに気づいたのは、還暦前後だったろうか。
しかし、前につんのめりそうになっても
自分が杖をつくことを想像したことはなかった。
杖をついている老人を、それから見たことがなかったわけではないのに
きょう、どうしてか、坂を下って私の前へ下りてくる婦人を見て、
ふと、「自分も杖をつくのだろうか」と不思議な感じで思った。
●よくわからないが、これも『狂人日記』を読んだ影響が一部にあらわれて
いるかもしれない。
その婦人に同情したわけでも、また自分が杖をつかないでいい身の上を
ありがく思ったのでもない。
また、杖をつかなでいいように、これからは散歩でもして脚を鍛えよう
などと思ったのでもない。 こんな健康志向は私から最も遠い。
なのに、なぜ杖をつく婦人に目がとまったのか。
彼女は、杖をつく反対の手で、ガードレールをさするようにして下っていた。
ガードレールに触っている彼女の右手の感触が、私に伝わって来る
ような気がした。
●「理屈ともちがう。現実ともちがう。実感というものがある。」
その自分の「実感」だけを頼りとして生きている男がいる。
納得できないまま、それを現実として月日を送る。
そうやらねば生きていけなので、無理に呑みこむものの、
けっして納得していないので、歳月がたっても微動もしないで
喉元に「実感」としてひっかかっている。
そして、
理屈とも関係ないし、現実とも一致しているわけでない「実感」というヤツは
ただそうやって閉鎖しておくより仕方がない。
『狂人日記』の男はそのように思う。
●ガードレールを手摺にして、ゆっくり下りてくる婦人が果たしてどんな考えをして
いるか、私はわからない。
しかし、「脚が不自由になる」ということは、いま彼女が杖をつき、
ガードレールを支えにして、そろうり、そろうり道を下るという、
そういうときの、喉元につかえる不自由さの「実感」のことかと思ったりした。
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