図書館の本を返却し、すこし以前に本屋で買っておいた(本の帯についての文章についての感想をかきました)ノンデュアリティの悟リリさんの在る視点(点は幻想)という本をよんでいます。半分くらいまで読書はきましたが、やはり異和感どおりの内容でした在る
永遠平和のためのメッセージ私はないとはただ自然があることでありたいそうでない世界をたいそうな世界にしているのが私の世界であるつまり努力(あたりまえでない)の世界であるその努力に感謝するように命じるのが自我でありその世界こそ無条件より重要だと
グレッグ・グッド(の本、気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ナチュラルスピリット社) の二段階の一瞥体験(観照、純粋意識)。 ちなみに、一度目は、ニューヨークのグランドセントラル駅(自我の象徴)から北(純粋意識の象徴)行きの地下鉄
今図書館の本でよんでるのは気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?(グレッグ・グッド著)という題名のナチュラルスピリットさんの本ですまたしても視「点」というナンセンスな言葉を題名に使ってるので悟リリさんの「在る視点」と同じく題名にツッコ
ついこの前から、途中からですが鑑賞しだしたドラマは^_^NHKのBSの鳴門手帖という時代劇の再放送とVRおじさんの初恋(こちらも途中から)というNHKの地上波の15分の連続ドラマです(鳴門手帖についてはすでにコメントしました。)VRおじさんのド
気づきに立ち位置はない純粋な気づき(いつもある)ではなく気づきの立ち位置がある場合(幻想)はどうなるだろうか?まず身体が気づきの立ち位置である場合物質が主体であり経験される世界も物質として現れます次に自我信念(たんなる思考だけではなくて)が
本日の湧いた言葉自然(ナチュラルスピリット)は何もする必要がありません何もしなければ 幻を信じることはなく永遠であり無限であり世界はひとつだよということなのです心がないので二元はうまれません心が悟るのではなく むしろ心こそが元凶なのです偉大
現在放送中の大河ドラマは聖徳太子コードのすぐあとの藤原氏の栄華を描いています(北陸に縁のある紫式部のストーリー)赦し、癒しの眼差しで眺めるとよいですねそうすれば真の光る君がみえてくるでしょうね大河ドラマ「光る君へ」| オープニング (ノンクレジ
中山さんの臨死体験地球創成以降の体験について縄文時代失われた古墳時代へ(邪馬台国 女性性からユダヤ由来の大陸からの騎馬民族によるいわゆるヤマト政権による支配)飛鳥時代ダースベイダー 聖徳太子(元レムリア系龍族のシュメール経由後の渡来系、蘇我
聖徳太子コード 上巻(2023年)によれば中山さんは臨死体験で三途の川は、天の川銀河だったといっています天の川銀河の中心は(永遠への?)生命の樹であり星々がその果樹だそうですよく知られている地球のパンゲア大陸はこの本の地球創世表によれば3億年前
木内鶴彦さんの臨死体験による地球史月は(スピリチュアルの別の本ではネガティヴ波動の象徴として地球に引き寄せられたという)1万5千年前に彗星として地球へ飛来した大量の水分が地球にもたらされ大洪水になったノアの大洪水(アトランティス文明などの沈没
十字架からの真の救済とはナチュラルスピリット(無条件 在る)ではない幻想(特別)の愛(活動という幻想の存在)はみずからを憎まずにはいられない幻想の存在であるためみずから十字架刑(ルシファーとして)をうけたのであるそしてキリスト(ルシファー)
キリストこそルシファーである在るがままをごまかして生きているかぎりマインド(空想)は自我の魂(分離を現実としたバラバラの存在)として輪廻します。誤魔化す例は以下になります。もっと「自分」が輝く人生を経験したい愛を「軸(原点)」に人生を送りた
オートマチックかんたん説明コの意識は個であるが、(他の意識の中の五感や思考や感情を感じることができないことがその証拠)その意識は、まだ非自我的なためにその意識、もしくはその意識の前や、その意識の後についておこることをコントロ
いまこの瞬間自分でできる範囲のなかでワクワクすることを見つけようというのがニューエイジの教えですがいまこの瞬間の?この瞬間というのがマインドを暗示していますね(瞬間という次の力動)いま ?この瞬間は次の瞬間(マインド)を現実にしており(自我
ノンデュアリティオートマチック(体外離脱の文章化の試み 仮説)源(ナチュラルスピリット)に背をむけると彼には何もない空間があらわれる(意識)そして源とのあいだに裂け目がおきたと信じたとき彼は自我と成り暗闇のなかの渦へむかうその先には
(探求のおわり付記)ピュアノンデュアリティからの真実の福音(前代未聞の対話、そして三行に明文されて示されたもの)は白い塔によるカリフォルニアオリピックの福音などなど、つまり、自然から(のオートマチックの終焉)のメッセージや、および図による説
四国の徳島県の東祖谷(ひがしいや)地方にある剣山(つるぎ 鶴と亀)ともいうその高天原にいた古代の民アマテラスやスサノオのさらにあとにアマテラスの?孫というニニギが宮崎県に登場する(?ユーラシア大陸方面あるいは
以前に鑑賞いたしました犬童一心 監督の映画「眉山 びざん」ちなみに眉山(びさん)という山は四国の東側である徳島県にあり、淡路島(イザナギ イザナミが最初につくった国産みの島) 鳴門の渦潮でも有名の対面にある山が眉山(びざん)なのです映画テー
ノンデュアリティオートマチック以外のすべてのスピリチュアルがハマっている催眠についてそれは空想である探求と意識のあとにくる自律(催眠、自我)にハマるということですつまり自律していると錯覚するようになる自我はさいしょの空想であるわたしを作った
【超神回】ポジティブな現実の後になぜネガティヴが起きるのかhttps://youtu.be/PfOzS5sZ4ps?si=H0-qf4UVhSJ980Sx
寝落ち前と寝おき後に湧いたとりとめもない言葉自然 ひとつ 神秘 ただ在る命行き詰まり(わたしの旅)の幻想が癒される私があるときは命でありながら、命ではなく私がないとき命である物より心が優れているというよりも、エネルギーは平等であり、ひとつの
流行のノンデュアリティの勘違いしてる4つのパターンがある1つめは五感が悟り(現在)だと勘違いしているパターン。フォーカス、強化すればよい、などなど、勘違いしていて苦労状態といえるのである。2つめは意識が悟りだと勘違いしているパターン。意識を失
真のシンギュラリティ(神の最後の審判)はもはや特異点ではなく在るがままが真実であるということだそれは唯一の今が実在であり次の今という幻想(自我、在りえない架空の内側という特異点)は実在しなかったという幻想からの救済である実在(現在)には幻想
特異点は外側にあるものではなく自分が特異点でありはじまりと終わりであるその特異点の0(ゼロ)化が私と世界を終焉させるピュアノンデュアリティ(ナチュラルスピリット)による真のヒーリングである
天空の城 ラピュタのスピリチュアル的意味インドのラーマヤーナの文明神話から名前をとったシータ姫はトゥエル ウル ラピュタトゥエルはまこと、真ウルは古代語で龍、または王(ムスカのほうはトゥエルではなくパロ ウル ラピュタ 分家)ラピュタはレム
自然から(のオートマチックの終焉)幻想の二元(わたし)にはイケない(分けられない)それはいつもある精神統一(いやし)のゆえに必ず戻ることになるそれを存在、無努力、ナチュラルスピリット、自然、自然意識ともよぶ自然からの幻想の現象はオートマチッ