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2018年08月14日14:47

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不立文字

前回の日記で私は次のように述べた。
【ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じているのだから、客観的な境界というものはあるはずもなく、「差異」は生まれようがないのである。】

それに対し、ho-anthroposさんから「もし差異というものが存在しないのだとすると、『変化』というものも存在し得ないのではないか?」というご指摘を頂いた。まことにごもっともな意見である。ものごとを固定的に見なければ差異は生じようがないが、差異が無ければ変化というものもないわけである。変化が無ければ「無常」というものもないのではないかということになる。本心を言うと「無常というものもまた無い」と言ってしまいたい気持ちもある。言い訳じみて恐縮だが、やはり「空観」を言葉で説明することの限界というのもあるのだという気がする。

言語を使用する限り、必然的に抽象化というものが避けられない。多様な差異を同一の観念へ押し込めて、差異を構造化したものが言語空間である。「空観」を言葉で表現すること自体が背理といえよう。

≪ 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における過誤(あやまり)をみて固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたくしは見た。」(雑阿含経より) ≫−「原始仏教」(中村元)P.50

空観を積極的に思想として説くことはできない。厳密さを期すなら、(あまり面白くないので、私は取り入れたくないが、)個々の事物に執着する態度を反省していくしかないのである。仏教学者の中村元先生によれば、龍樹の『中論』も実は論争の書であり、説一切有部の概念の実在論に対し、帰謬法でその矛盾を突く形式で論じられているということである。つまり、イデア的実在論の矛盾をついているのであって、独自の立論をしているわけではないのである。龍樹もやはり「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。」という態度を貫いているのだ。

哲学者たる私は空観をどのように取り扱えばよいののだろうか? 語りえぬものについては指し示すしかないわけで、そのためにはとことん語りきるしかないのだろう。
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